
自分らしく生きるために、他者への迎合を止めることが大切だと前回の記事でお話ししましたが、他者への迎合というのをやめるのはなかなか難しいかと思います。
それは、やめようと思っていたとしても、いざ迎合するような場面になってしまうと、自分の意思に反して相手に合わせてしまったりするものだからです。
今まで培ってきた長年の「迎合癖」というものがあり、もはや無意識の領域で迎合が起こってしまっているんですね。
さて、今回はそんな迎合を手放せないあなたへ、今回は別の視点から自分らしく生きる方法を共有していければと思っています。
それが、本音の抑圧をやめること。
迎合の次は抑圧と、よく分からない単語が出てきていますが、一緒に学んでいきましょう。
自分らしく生きるとは、本音の抑圧をやめること
抑圧。
文字の通り抑えるということですから、本音を抑えてしまうこと、つまりは我慢することで、僕たちは自分らしさを失っているのです。
この我慢というのは多岐に渡ります。
例えば、本当はやめてほしいと言いたいのだけれど、どうしてかそれが伝えられずに我慢してしまったり。
もっとシンプルに、本当はお肉が食べたい。
けれど、ダイエットをしてるからお肉を食べるのは我慢して野菜にしてみたり。
このように、僕たちは人生において我慢ばかりをしています。
きっとあなたも、思い返してみれば我慢の連続の人生なのではないでしょうか。
さて、そんな抑圧ばかりの人生だとどうして自分らしく生きられないのかと言いますと、自分らしく生きるというのは、純粋な欲求に従うことだからなのです。
自分らしさとは
そもそも自分らしいって、なんとも抽象的な表現ですよね。
ただ、それをもう少し具象化していくと、自分らしく生きるというのは「自分の欲求を偽らずに生きる」ということになります。
「じゃあ衝動的に、動物のように生きるのが正解なの?」という風にも感じられてしまいますが、ここで言う欲求は長期的な自己の価値観に基づく欲求であり、刹那的欲求とはまた少し違うということは押さえておいてください。
さて、先ほどの例で言えば、やめてほしいと伝えたい。
これが本当の自分です。
やめてくれと伝えるのが、本当のあなたです。
同じように、お肉を食べたいのが本当のあなたです。
野菜を食べたくて食べていれば問題はありませんが、太るのが怖くて野菜を食べるているのは偽りのあなたであり、自分らしく生きるのであれば、お肉を食べることが必要なのです。
聞けば簡単そうですが、どうしてか僕たちは抑圧をしてしまい、本当の自分を裏切ってしまいます。
どうしてそうなってしまうのかというと、ここにも欠乏感が隠れているのです。
欠乏感が抑圧を生む
正しくは、欠乏感が恐れや不安を生み、恐れや不安が抑圧を生んでいるのですが、端的に言えば「欠乏感が抑圧を生む」のです。
繰り返しの展開になりますが、先ほどの例で考えてみましょう。
やめてほしいのにやめてほしいと伝えられないのは、やめてほしいと伝えた結果、何か恐れや不安を感じるような未来が起こる可能性を感じているから伝えられないのです。
もしかしたら、やめてほしいと伝えたら嫌われてしまうかもしれない。
つまりは、好かれている自分を失ってしまう。
そう思えば、僕たちは嫌われることを避けるために本音を抑圧してしまうというのも納得いくのではないでしょうか。
お肉を食べたいのに野菜を食べるのも、痩せている自分を失うのが怖いから、お肉を我慢して野菜を食べるのです。
どんな抑圧、我慢の裏側にも、そこには必ず恐れや不安といったものが存在しており、それによって欠乏するのを避けるために、僕たちはいつも抑圧という選択をしてしまうのです。
抑圧から解放されるために
僕たちは自分らしく生きるために、抑圧を手放さなければいけません。
でも、どうしたって抑圧しなければ生きていけないのがこの世の中です。
本音に従えば孤独や喪失を招く。
それが抑圧せざるを得ない理由です。
では、そんな状態でどう生きたらいいのでしょうか。
毎度同じことを言ってしまっていますが、まずはその欠乏する未来を受け入れることです。
欠乏する未来を避けることよりも、自分の本音に従うことを優先するのです。
あり得ない話ですが、極論を言ってしまえば全ての人間関係を失うことになるかもしれません。
だとしても、自分らしく生きるのであれば、本音を抑えてはいけないのです。
嫌なものは嫌だし、行きたくないものは行きたくない。
それで嫌われたのであれば仕方ないと、諦めてしまうことが必要なのではないでしょうか。
本音の自分を受け入れてくれないものなど、こちらが必要とする必要はないのです。
そしてもう1つ、あなたが本音に従って生きると全てを失ってしまうほどの人間なのだとしたら、それはあなたの精神性を磨く必要があるのかもしれません。
本音を貫くことで人間関係が崩れてしまうのなら、それはもしかすると、あなたがまだ本音を伝える術や、人を傷つけずに自分を表現する術を学びきれていないのかもしれません。
つまり、それは未熟さであって、責めるべきことではなく、これから磨いていける可能性の領域なのです。
僕もそうでしたが、僕は利己的で自分のことしか考えられず、人を愛することができなかった。
そんな僕にとって、社会で生きるということは、自分を偽ることと同義であったのです。
ですが、これが僕の間違った選択だったということは言うまでもありません。
僕は努力を間違えました。
自分が人を愛する努力をしなければならなかったのに、自分の未熟さから目を逸らし、自分を偽る努力ばかりしていました。
だから苦しみから逃れられなかったのです。
もしもあなたが過去の僕と同じように、自分を偽らなければ生きていけないのだとしたら、まずは偽る必要があるほど未熟な自分を認めてみましょう。
もちろん、未熟であることが悪いという話ではありません。
それはまだ自分を守るための方法が他に見つかっていないというだけの話。
ただ、そんな自分はどう生きたいのかを考えるのが大切なのです。
そうした先に、あなたが本音で生きられる世界というのは存在しているのではないでしょうか。
まとめ
他者への迎合をやめようと思っても、長年の癖や無意識の反応によって、つい自分を抑えてしまう。
そんな経験は、誰しもがしているはずです。
ですが、僕たちが「自分らしく生きたい」と願うなら、まずやめなければならないのは、本音の抑圧です。
自分の中に芽生えた小さな欲求を、「こんなこと言ったら嫌われるかもしれない」「損をするかもしれない」といった恐れによって押し込めてしまう。
その結果、自分らしさを失い、どこかで虚しさや違和感を抱えたまま生きることになります。
でも、それは本当の意味での人生とは呼べないのかもしれません。
大切なのは、「欠乏する未来」を受け入れる覚悟を持つこと。
たとえ誰かに嫌われても、たとえ孤独になってしまっても、それでも「自分の本音を大切にして生きたい」と願うなら、その覚悟こそが、あなたの人生を自由にし、苦しみから解放してくれる鍵になります。
もちろん、いきなり完璧にはできません。
けれど、まずは「偽らなければいけない自分の未熟さ」を認めるところから始めてみてください。
あなたが未熟であることは、悪いことではありません。
ただ、どう生きたいのかを問い直すきっかけになるだけです。
そして、恐れや不安に惑わされず、少しずつでも本音を選び取ることができたとき、あなたはきっと、自分らしさに満ちた、軽やかな人生を歩み始めているはずです。