【脱欠乏感】足りない人生から豊かな人生へ

欠乏感を解消して、なりたい自分に。

我慢する人生をやめるために

我慢。

生きていると我慢をしなければいけない場面というのは多く、その積み重ねが大きなストレスになってしまうことも少なくありません。

 

ストレスの原因になっているのなら我慢をすることをやめればいいじゃないかという人もいるでしょうが、いざ我慢をやめて本音を暴露して生きることは、社会的な死を意味するところもあり、身動きが取れないというのが多くの人の現状なのではないでしょうか。

 

分かる。

めっちゃ分かる。

 

どう足掻いたって我慢をしない生活をするのって難しい。

その場を上手く治めるには、自分が我慢をすることが一番だったりするんです。

 

でも、その場は上手く収まっているかもしれないけど、あなたの心は荒れ狂ったまま。

速攻魔法の大嵐が発動したときくらい荒れ散らかしているわけです。

 

私は声を大にして言いたい。

音量を100に設定して、近所迷惑になるくらいのボリュームで言いたい。

 

お前は本当にそれでいいんか!!!!!!!!!!!!

ビックリの数からしてどれだけ大きい声なのかご理解いただけたかと思います。

余談ですが、お酒を飲みながらはしゃいでゲームをしていたらうるさすぎて警察を呼ばれたことがあります。

お隣さんが呼んだのかは不明ですが、ここでお詫び申し上げたいと思います。

 

さて、話が逸れましたが、我慢してストレスを溜めたままでいいんかい。

これが今回の記事のテーマになります。

 

そもそも我慢とはなんなのか。

どうしたら我慢をしないで生きることが出来るのか。

 

ぜひ最後までご覧ください。

 

 

 

我慢って何だろうか

我慢してる我慢してるってみんな言うけど、そもそも我慢って何なのってところからいきましょう。

 

我慢というのは抑圧です。

いや抑圧が分かんねーよって声も飛んできそうなのですが、我慢というのは他者に迎合するために使われる一種の心の動きだと思ってください。

迎合、即ち他者に気に入られるため、嫌われないために、本来の自分の感情や意見を捻じ曲げる行為、それが抑圧なのです。

 

簡単に言うと生存戦略みたいなもので、社会性のある生き物である人間は、周りと摩擦を起こすと生きていけないので、そのために我慢し、その度にストレスを抱えていっている訳です。

 

なるほど、自分の意見を捻じ曲げているからストレスが溜まっているのかと思ったことでしょう。

しかし、そもそもどうして意見を捻じ曲げることがストレスに繋がっていくのでしょうか。

 

それには、抑圧で起きている心理的な動きが関係していました。

 

抑圧とは、自己否定である。

そう、抑圧というのは「本来の自分を否定し、あるべき姿の自分を出力する行為」なのです。

自分では意識せずにやっていないでしょうが、よくよく考えてみると、抑圧の裏には必ず自己否定が隠れています。

 

例えば、誰かがお茶を溢してしまったとしましょう。

その時にあなたの服を濡らしてしまい、ごめんと謝ってきたとします。

 

心の中では結構なお怒りモードのあなた。

「お気に入りの服に何してくれとんじゃい」

「このあとにデートが控えてんねんぞ」

などと怒りの言葉が湧いてくるわけです。

 

でも、ここであなたは言うわけです。

「ワザとじゃないし仕方ないよ、気にしないで」

 

あ、俺も言いそうって思ったそこのあなた!!!

まさにこのセリフが自己否定なわけです。

 

どうして心の中に湧いてきた言葉をそのままぶつけなかったのでしょう。

 

そうです、大人気ないからです。

大人な対応として「そうするべき」だったから、建前上許したのです。

 

そして何より、怒りをぶつけたら相手との関係にひびが入るかもしれない。

それは孤独に繋がる可能性があり、それはそれで恐ろしくて選べない。

 

だから本当の自分を抑圧し、自己否定し、その場を丸く治めようとしてしまうのです。

 

だから我慢はしんどい。

本来の自分を無意識に否定してしまっているから。

否定してしまったことで、その「大人気ない自分」が行き場所を失ってしまったから。

存在することを否定されてしまったから。

 

欠乏を避けた先にあるのが我慢である

本質的な話をすると、我慢をするのは欠乏を恐れているからです。

 

なぜ人は自分が我慢、禁止していることを他人がしていることを嫌うのか考えてことはありますか?

例えば、目上の人には敬語を使わなければいけないと自分を律している人は、他の人が目上の人にタメ語を使っていることが許せない場合があります。

 

あいつはなんて失礼な奴だとキレ散らかすのですが、どうしてそうなるかというと、欠乏感が刺激されるからです。

我慢というのは、欠乏に対する恐れから自身の欲求を捻じ曲げる行為です。

 

これは、恐怖に対する迎合とも言えます。

 

自分が我慢していることを他人がしているということは、自身の欠乏感を直視させられることと同義。

だから不快なのです。

 

結局欠乏感が全て悪さをしているって話なんですね。

 

我慢をしないで生きるには

では我慢をしないで生きるにはどうしたらいいのでしょうか。

今のまま我慢せずに生きてしまったら、利己的な欲求に塗れた怪獣が生まれちゃいます。

もうその姿はまるで子どもで、見た目だけデカいおじさんベイビーが爆誕してしまうのですが、それは避けたいところ。

 

そこで大切になってくるのが、愛を持って生きるということです。

 

僕たちは「あるべき姿」を演じるために自己を抑圧します。

逆に「あるべき姿」を演じる必要がないときは、抑圧なんかしません。

 

家族にだけ幼児性を見せたりするような人というのは、外ではあるべき姿を演じ、家庭では演じる必要がないので、ありのままの幼児性を爆発させているのです。

 

少し話が逸れましたが、じゃあそのあるべき姿って何なのだろうって考えたときに出てくるのは「精神的に成熟した大人」ではないでしょうか。

 

そう、ぼくたちは成熟したフリをするために必死に我慢という努力をしている子どもなのです。

精神的に成熟するという努力ではなく、自分を偽るという方向に努力をしてしまっているから、ずっと我慢ばかりの生活をしているのです。

 

我慢とは精神的に未熟なものがする行為であり、我慢をしている自分に気づいたのなら、相手を愛せるように努力をしていかなければならないのです。

 

おっと、なんだか声が聞こえてきます。

私は未熟でダメな人間なんだと落ち込む声が聞こえてきますねェ……

 

でも安心してください。

世の中の8割は未熟です。

 

本当に成熟した精神の持ち主は本当に少ないです。

どれくらい少ないかって言うと、エンテイライコウスイクンくらい少ないです。

イクラのダイヤモンドの鉱石くらい少ないです。

僕の毛髪くらい少ないです(最近ちょっとベジータ化してきている気がします)

 

冗談はさておき本当に少なくて、誰かを愛せる人なんていうのはごく少数ですから、あなたはマイノリティではありません。

 

だから未熟であることに落胆せず、むしろその事実をありのまま受け取り、成長に繋げていってほしいものです。

 

そういえばフリーター時代の職場にいた先輩が「我慢することは大人ってことだ」って言ってたけど、それは大人のふりをしているだけなんだなぁって思ったり。

我慢が美徳っていう時代も終わりなのかね。

 

ちなみに、愛するということについては過去に記事を挙げていると思うのですが、愛するというのは能動的な姿勢であります。

そしてそれは相手を受け入れることであり、許すことであり、認めることであり、与えることであり、相手の幸せを願うことであります。

つまりは自分の損得ではなく相手の損得を軸として物事を考えることであります。

 

思考ベースが自分中心である限り、利己的である限りは我慢をしなければ生きていけないでしょう。

しかし、利他的に考えられるようになってくれば我慢は必要なくなってきます。

 

それはあるべき姿と今の自分に矛盾が生まれないから。

我慢できるようになるというのは、思考と欲求が相反することなく同じ方向を向いている状態のことをいうのです。

 

 

 

まとめ

我慢ばかりのあなたへ。

あなたが今我慢ばかりしているのは、恐怖から他人に迎合をしてしまっているからです。

 

でも、そんなあなたを責めないでいただきたい。

自身を抑圧することというのは心の防衛メカニズムであり、あなたが生き残るために稼働している防衛本能なのです。

 

勝手に働いているんだからしゃーないやんって。

 

こんなこと書いている僕も、抑圧すごすぎて人生を無駄にしまくってた時期があります。

 

僕の青春は抑圧です。

抑圧アミーゴです。

 

でも、その抑圧に気づいて、愛について学び直したからかなり我慢は減ってきました。

もちろん100%我慢がなくなったわけじゃないです。

 

僕もまだまだ成長途中。

でも、かなり生きやすくなったように感じます。

 

だから、ツラいかもしれないけど、努力の方向性を修正してほしい。

我慢を続けて耐え忍ぶ努力じゃなくて、自分を変える努力に繋げてほしいんです。

 

一緒に同じ景色が見られたら最高だなってところで今日はここまで。

自分の生き方について少し考えてみてくださいね。