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力を持つ者はどう在るべきか

たけうち、映画を観てきました。

 

その名も「ノーアザーランド」。

 

破壊される故郷を撮影するパレスチナ人青年と、彼の活動を支えるイスラエル人青年の友情を、2023年10月までの4年間にわたり記録したドキュメンタリーです。

 

軍が村の家屋を破壊し占領していく様子は非常に胸が痛み、考えさせられる内容でした。

 

力を持ってねじ伏せることは正しいのか。

力を持つ者はどう在るべきなのか。

 

今回の記事では「力を持った者」はどう生きていくことが大切なのかを考えていきます。

ぜひ最後までご覧ください。

 

 

 

力を持つ者の在り方

このドキュメンタリー映画では、軍隊が武力で村の人々をねじ伏せていきます。

反抗したら銃で撃ち、彼らが建物を再建できないよう大工道具を押収していく。

 

力では勝てない村の人々は、ただ受け入れるしかありませんでした。

 

力で他人をねじ伏せる行為というのはどうにも気持ちが悪い。

これがこのドキュメンタリー映画を観た僕の感想です。

 

ではこの気持ち悪さはなんなのか。

言語化するなれば「力を何のために使っているのか」という部分が、気持ち悪さを生んでいるのだと思います。

 

力には責任が伴います。

力というのは何かよりも勝っているから力と言われるのですから、何かに勝ててしまう以上、その結果を生みだす責任は力のあるものにあるのです。

 

例えば、発言力のある人と全く発言力がない人では、両者が意見をぶつけ合ったとしても発言力のある人の意見が優遇されるでしょう。

 

そうしたときに、その結果に責任を持たなければならないのは発言力のある人なのです。

 

その責任を負わなければならない立場なのにも関わらず、力を正しく使わない。

もう少し具体的に言うなれば人のためではなく自分のために使っている。

 

これが、このドキュメンタリー映画での違和感を生んでいた部分でした。

 

誰が為に力を使うのか

力を持つ者は他者のためにその力を使わなければなりません。

自分の私利私欲のために力を使うということは、その分他者を不幸にするということだからです。

 

他人の不幸の上に自身の幸せを築き上げないよう、自らを律する必要があるのです。

 

武力というのは他人を虐げるためのものではありません。

武力というのは、脅威から大切なものを守るためにあるものです。

 

権力というのは自身の利益のために組織をコントロールするものではありません。

権力というのは、その組織の人々が幸せになれるよう導くためにあるものです。

 

ヒーロー映画を観ていてもそうでしょう。

誰よりも優れた力を誰かのために使うからヒーローなのです。

自身の欲望のために使う者はヴィランとなってしまうのです。

 

誰かのためにその力を使いましょう。

弱き者のために、彼らを守るためにその力を使うのです。

 

あなたも力を持つ可能性は大いにある

あなたがどれだけ力のない存在でも、力を持つ可能性というのは存在します。

 

それは、立場という力です。

 

会社での責任者や、家族という組織の中での親子関係。

自分よりも下の立場の者が現れれば、あなたは否が応でも力を持つようになります。

 

そんな時に、その力を間違った方向に使わないためにあなたは心を成熟させる必要があります。

 

自分には力がないから関係ないとかではないのです。

いつ力を得るかは分からないのだから、いつ力を得えていいように備えておく必要があるのです。

 

間違った力の使い方は周りを不幸にし、いつしか自分自身を亡ぼします。

そうならないためにも、人の為に生きられるよう、愛する練習をするのです。

 

意識的に誰かに与える思考の癖をつけていきましょう。

その小さな努力が、あなたの生き方を変えていくのです。

 

 

 

まとめ

力を持つ者は、人を幸福にもできるし不幸にすることもできる。

 

ただ、その力を行使することには責任が伴うということを僕たちは理解しておかなければならないのです。

 

あなたは誰のためにその力を使うのでしょうか。

その力を得て、どんな世界を実現したいのでしょうか。

 

力というものを軽視せず、その責任を背負える人間になりましょう。

 

それぞれがそういった意識を持つことが、世の中を良くしていくことに繋がるのです。