【脱不幸論】自分だけの人生を。

自己理解、自己受容を通してなりたい自分になるお手伝いを。

ダメな自分を受け入れられない人へ

こんにちは、たけうちです。

 

自分を受け入れられない人の中に、ダメな自分を受け入れられない人がいます。

特に幼少期に親子関係で問題が起きていることが多く、間違いを責められたり、失敗した自分を受け入れてもらえなかったり、劣っている部分を笑われたりした過去があると、ダメな自分を無意識に良くないものとして認識してしまうので、その結果受け入れられなくなるパターンが多いです。

 

ですが、ダメであることは悪いことではありません。

今までの常識が崩れ去ってしまうような事実ですが、これを理解することが自己受容に繋がっていくでしょう。

 

そこで今回の記事では、ダメな自分に対する考え方をご紹介します。

 

 

 

先ほども書きましたが、ダメであることは悪いことではありません。

何故なら完璧である人間など存在していませんし、むしろ不完全であることが完璧であるといえるのが私たちだからです。

 

ですから、何か間違いを起こしたり、失敗したり、出来なかったり、劣っていたりするのは人間である以上当たり前なことであり、完璧になんでもこなせる人がいるとしたら、それはもう神様だと言えるでしょう。

 

だからまずは、自分がダメであることに対してマイナスな印象を持たないようにしてほしいのです。

 

ダメな部分は存在します。

綺麗ごとを言うつもりはないので、あなたはダメなんかじゃないとは言いません。

ダメな部分は存在しています。

ですが、ダメであったとしてもそれは悪いことではなく、ごく当たり前のことなのです。

 

試しに森と検索してみてください。

たくさんの木々が見れるかと思います。

一つとして同じ形の木は存在していませんよね。

立派な太さで樹齢を感じるような木もあるでしょうし、大きく折れてしまっている木もあるかもしれません。

お世辞にも立派とは言えない貧相な木もあることでしょう。

 

どうですか、この木は悪い!と感じるでしょうか。

多分感じない人がほとんどだと思います。

 

どれだけ不格好な樹木であっても堂々と育っているその姿はむしろ美しく、立派に見えるのではないでしょうか。

 

真っすぐ育っていない、葉の量が少ない、幹が細いなど、ダメな点を挙げればきりがないのですが、そういった部分があったとしても木に良いも悪いもないんですね。

ただそこには真っすぐ育っていない、葉の量が少ない、幹が細いといった事実が存在しているだけです。

 

なんで良いも悪いも感じないかというと、それが当たり前だからです。

木が不格好であるのが当たり前だからです。

絵に描いたような美しい木など滅多に存在しないとわかっているからです。

 

これって人間にも当てはまるんですね。

出来ないことがあったり、他人と比べて不得意な部分があったり、間違いを犯してしまったり。

こういった一般的にダメと言われるような要素を抱えていて当たり前なんです。

絵に描いたような出来る人間は存在しないんです。

 

だから、ダメでいいんです。

ダメであることが正しいんです。

そこに劣等感や羞恥心を感じる必要など全くないのです。

なぜなら、ダメな部分があって当たり前だから。

 

冒頭で書きましたが、親子関係で間違いを責められたり、失敗した自分を受け入れてもらえなかったり、劣っている部分を笑われたりしてくると、どうしてもダメであることが許せず、そんな自分を受け入れらなくなってしまいます。

 

その結果ダメな自分を認められなくて言い訳をするようになったり、嘘をつくようになったり、他人に自分の弱点をかくすようになったりと、日常生活で自分を裏切るような行動をとるようになってしまう人もいます。

 

こうなってしまっているのであれば、自分のためにもダメな自分を許すようにしていきませんか。

 

ダメな自分が悪いのではなく、ダメな自分を否定して認めないことこそが自分に対する冒涜であり、悪なのです。

 

ダメであれ。

どんなに不格好な木々も堂々と逞しく生きているように、僕たちもまた、不格好な姿で堂々と生きることが大切なのでしょう。