【脱不幸論】自分だけの人生を。

自己理解、自己受容を通してなりたい自分になるお手伝いを。

やりたいけどやりたくない心理

こんにちは、たけうちです。

はじめましての方は、こちらの記事もご覧ください。

 

www.takeuchipsychology.com

 

人生は行動することで好転していくことは理解しているけど、いざ行動しようとすると「面倒くさい」や「なんとなくやりたくない」といった心理的ブレーキがかかってしまうことがあります。

 

「また明日にしよう」「準備が出来てからにしよう」といった合理化に流されて結局なにもできていないなんてこともあるのではないでしょうか。

 

確かにやりたいはずなのに、なぜか行動に移すことができないのは恐怖や不安といった感情が邪魔をしているのかもしれません。

 

今回の記事では、やりたいことをやろうとするとブレーキがかかる理由についてお話していきます。

 

 

 

やりたいようで本当はやりたくない

やりたいことなのになぜかやらない。

自分はこんなにも行動力がないのかと自分に失望してしまいそうですが、あなたに行動力がないのではありません。

 

本当はやりたくないのです。

無意識的にはやりたくない理由があり、それがブレーキとしてあなたの行動を止めているに過ぎないのです。

 

その行動をとるとなにかしらのデメリットを感じるから、やりたいけどやりたくないという矛盾した葛藤を抱えるんですね。

 

自分の意識ではやりたくないと感じてはいないで信じられないでしょうが、ではどうしてやりたいのにやらないのでしょう。

 

例えば、水を飲むというアクションをとる時にあなたは抵抗を感じるでしょうか。

ほとんどの人は抵抗なく、その欲望のままに水を飲もうとするはずです。

 

何も抵抗を感じることなく行動できるのは、水を飲むという一連の行動にデメリットを感じることがないからです。

 

では、次に好きな人をデートに誘うというアクションで考えてみましょう。

このアクションは、水を飲むよりもある程度の心の抵抗が生まれるかと思います。

 

①蛇口をひねって水を出す

②水を飲む

というアクションと

 

①好きな人に会う

②好きな人をデートに誘う

というアクションは工程数は同じなのにも関わらず、同様の心の抵抗が生まれないのは、好きな人をデートに誘うというアクションは、水を飲むよりもデメリットが生じるからです。

それゆえに心でやるかやらないかの葛藤が生まれる。

 

だからなんとなく、気軽にデートに誘うことが出来ないのです。

ただ誘うだけのことなのに、ワンアクションで済むことが出来ないのは、そのアクションの裏に潜むデメリットに不安や恐怖を感じているからです。

 

なぜやりたくないのか

やりたいけどやりたくないのは、不安や恐怖による葛藤がブレーキをかけているからです。

そして何に不安や恐怖を感じているのかといえば、アクションを起こした結果、自分の精神的安全性と命の安全性が危険に脅かされることに対して不安や恐怖を感じているのです。

 

経過や結末が分かっていることに対して、人は不安や恐怖を覚えることはありません。

水を飲むのに抵抗がないのは、蛇口をひねれば水が出てくること、それが安全な水であることが分かっているからです。

 

自分の通る未来から結末までの全てが確実な未来として予測できるから、なにも不安や恐怖を感じずに行動できるのです。

 

仮にあなたが山奥で遭難したとしましょう。

のどが渇いた状態で汚れた池を見つけたとしても、家で水を飲むときよりも抵抗を感じると思います。

 

それは、水の品質が担保されていないせいで自分の未来がどうなるか分からないからです。

分からないからこそ、不安や恐怖を感じるのです。

 

デートに誘う場合も同様です。

デートに誘うことにすごく抵抗を感じるのは、承諾が得られるかどうか分からないからです。

断られたら傷つきますから、そこで抵抗が生まれているのです。

 

ではもしも絶対に自分のことが好きな人、例えば自分のパートナーをデートに誘うときに抵抗を感じるでしょうか。

ここで抵抗を感じる人は少ないと思います。

それは、この人は自分の誘いを承諾してくれるという確信、仮に断られたとしても自分を好きでいてくれているという確信があるから不安や恐怖を感じないのです。

 

こちらの例でも、自分の精神的安全性が脅かされるかどうかで、心の抵抗が生まれていることが分かるでしょう。

 

恐怖や不安に打ち勝つ

分からないことに不安や恐怖を覚えるのは仕方がないといえます。

それは、人間の生存本能として必要な要素だからです。

 

だからその不安や恐怖を受け入れて、自分がどういった部分にそれらを感じているのかを理解しようと努めるべきなのではないのでしょうか。

それが、やりたいことをやっていくために必要なことなのです。

 

僕たちがやりたいのにやれないといって悩むとき、それは大抵、精神的安全性が脅かされるときです。

それが上手くいかなかったときに自分が傷つくことが怖いから、行動まで結びつかないのです。

 

でも、やってみないと分からないならその痛みを受け入れるしかないのです。

 

分からないことに挑戦してみたら、それは実際は大したことじゃないかもしれないし、不安が的中して本当に上手くいかないかもしれません。

 

ですが、そんなことを気にしていたら一生発展はないのです。

尻込みしている暇はないのです。

 

結末が分からないようなやりたいことがあるなら、勇気を出して、覚悟を決めて一歩を踏み出し、傷つきながらも向き合っていかなければならないのです。

 

それに、分からない世界に飛び込んで傷つくとして、それは本当に傷つくべきことなのでしょうか。

傷つかなくていいことで傷ついていることだってありえるのです。

 

僕は1時期、ゲーム関係の動画をYouTubeに投稿し、動画本数が20本も行かないうちに1500人以上に登録をしてもらった過去があります。

非常に幸運だったと思いますし、もしも続けていればもっと大きなチャンネルに出来ていた自信がありますが、当時の僕は他人の評価を気にしていて、悪く思われるのを恐れて動画を投稿できなくなってしまいました。

 

いくつもの高評価があっても、低評価が1つでもついてしまったらすごく傷ついてしまい、行動できなくなっていったのです。

動画を投稿したいのに投稿できない、まさにやりたいけどやりたくない現象が起こっていたんですね。

 

もしかしたら他人に悪い評価をつけられるかもしれないという見えない未来に対する不安と恐怖が、僕を支配していたのでした。

 

結局そのチャンネルはもう使っていませんが、もし今僕が当時の僕に伝えられるのなら

、他人の評価で傷つくことはないと伝えたいなと思います。

 

世界にはいろんな人がいますから、自分に対してポジティブな印象を持つ人もいれば、ネガティブな印象を持つ人もいます。

だから、悪く思われても当然だったのです。

 

他人の評価を気にしているよりも、自分が納得いく形で物事をやり抜けていたかどうかの方が、余程大切だったことに気づくべきでした。

 

自分の幸福を他者に委ねるから、未来が分からなくなるのです。

自分の幸福は、自分の行動に置くべきなのです。

受け身の姿勢が、自分を傷つけることに気づくべきでした。

 

自分が納得のいく動画を投稿することを重要視すべきだし、好きな人には自分の愛を与えることを重要視すべきなのです。

 

全ては、自分がどうしたいかなのです。

決してどうされたいかではないのです。

 

 

 

まとめ

やりたくないことこぞ、やりたいことなのです。

 

心に問いただしてみてください。

やりたいのか、やりたくないのか。

 

心の底からやりたくないのであればやる必要はありません。

ですが、やりたいけどなんとなくやりたくない、逃げたくなる、やらない言い訳が出てくる、なんかもやもやする、こういった感情なのであればそれはやるべきなのです。

 

それは未来が見えないからやりたくないだけで、本当はやりたいことなのです。

 

誰かにどう思われたいだとか、こうされたいだとか、そういった願望を軸に据えるから未来が確定しないのです。

他者に自分の未来を委ねて、どうして自分の未来を確定させられるでしょう。

 

自分がどうしたいかなのです。

自分の願望は、自分でコントロールできる範囲でのみ持つべきなのです。

 

自分がやりたいことを通して何を感じたいのか、何をしたいのかを大切にして生きてください。

 

それが心の葛藤を弱めるきっかけになるはずです。