【脱不幸論】自分だけの人生を。

自己理解、自己受容を通してなりたい自分になるお手伝いを。

完璧主義者が気づくべきこと

こんにちは、たけうちです。

 

完璧を追い求めてしまう完璧主義者は、人生においてとてもストレスを感じやすいです。

完璧など追い求めても、完璧が手に入る確率は極めて低いにも関わらず、その幻影を追い求めてしまい、それが手に入らないのが不満に感じてしまうからです。

やがて完璧が手に入らないからと挑戦することも億劫になり、人生を進める力が衰えていき立ち往生してしまう。そんな未来が待っていることもあります。

 

今回の記事では、そんな完璧主義者が気づくべきことについて考えていきたいと思います。

 

 

 

完璧主義者が目指しているのは、完璧です。

失敗もせず、劣等感を感じるような弱点ももたない、完璧な存在であろうとします。

 

彼らにとっては、それがあるべき姿であり、それ以外は認められないのです。

少しでも失敗したり、弱点を抱えてしまうような自分は、受け入れられない。

それゆえに苦しんでしまうのです。

理想と現実の乖離こそが、完璧主義者の不幸なのです。

 

なんでそんな風に感じてしまうのかと言えば、やはり幼いころの生活環境が大きいでしょう。

例えば、上手く行った時だけ褒めてもらえて、失敗したときにはそんな自分を認めてもらえない、受け入れてもらえないというような環境で育ってくると、無意識に失敗を許すことができないようになってしまいます。

 

原因をみれば、完璧主義者になるのも必然だと感じますよね。

 

さて、そもそもそんな完璧主義者が目指している完璧とは正しいのでしょうか。

自分が苦しむような価値観は、そもそも正しいのかを見直す必要があるんです。

 

人間とは不完全な生き物です。

誰一人として完璧な人はいません。

どれだけ優れた人間にも、なにかしら弱点は存在しています。

 

自然を見渡しても同じ形の石がないように、同じ形の木々がないように、完璧などなく、どれもが不完全であり、それこそが完璧なのです。

 

なのに完璧主義者はつい全てにおいて完璧を目指してしまう。

では不完全であることが人間の証とするのであれば、完璧主義者が目指している完璧なものはなんなのでしょうか。

 

それは「神」であると言えるでしょう。

世の中ですべてにおいて完璧なのは神だけなのです。

 

完璧主義者は烏滸がましいことに、神にしかなし得ないことを自分に期待します。

自分では到底無理であるにも関わらず、そんな無理難題な課題を自分に課す。

そうでないと自分には価値がないと思っているからです。

 

まず完璧主義者は、自分がいかに本来の判断基準からズレた価値判断をしているのかに気づくべきなのです。

自分に対して、又は他人に対して完璧を求めてしまうのは神であることを要求しているようなものなのです。

 

何度も言いますが、人間とは不完全なものです。

不完全な状態が完成形であり、その不完全な自分や他人を認めることが大切なのです。

 

失敗や劣等感を感じるような弱点がないと人は完成しません。

むしろあなたにとってもそれは必要な要素なのです。

 

自然の景色は美しいものですが、どれも完璧ではありません。

不完全さが自然さを感じさせ、そこに美しさ、魅力を感じるのです。

 

人間だって自然の一部。

自分の不完全さが人としての魅力に繋がるということを理解し、そんな自分を大切にしていくことが大事なのだと思います。