「木々の逞しさを参考に生きる」
最近自然を感じる場所に行くことが好きで、山に出かけたり露天風呂でのんびりしたりしています。
長野県生まれ長野県育ちの私ですが、今になって山々の魅力に気付きました笑
こんな風な生活をしていて、ふと木々を見ていて腑に落ちたことがあったので共有させてください。
それが「不完全こそ完全である」です。
少し前の記事にも書いた記憶がありますが、それが一気に腑に落ちた感覚がありました。
露天風呂から見える木々を見ていると、なんだか木々の堂々とした姿に魅力を感じます。
どれも立派な木々ではないにしても、なんだか逞しさみたいなものを感じるんです。
それで「素敵だなぁ、こんな生き方が良いのだろうなぁ」と感心していたところ、ふと木々の形に目が行きました。
不恰好なものばかりで、僕らの思い描くような100点満点の木なんてどこにもないんです。
そりゃあそうだし当たり前なんですけど、みんな不恰好で美しくはないのに、その逞しさが美しかったんです。
これこそがあるべき姿だと感じました。
別にどんな形をしてようが、その姿で堂々と逞しく生きていくのが本来僕たちがすべき生き方なのではないかと。
だって、周りと違くてもそれって劣ってないんですよね。
木々を見ていても、どれも形も違ければ何もかも違くて、同じ木なんて一つもありません。
それでも、どれが優れているだとか劣っているだとかそんなものは無くて、どの木々も素晴らしく美しいんです。
その当たり前のことに気づいた時に、どうして木々はそれぞれが違うことが当たり前なのに、人間のことになるとその当たり前が受け入れられないのだろうと思いました。
人間だって自然界の生き物ですから、木々と同じでそれぞれ違うものですよね。
だから周りと同じでいることは不可能だし、完璧でいるのも不可能。
むしろそれで当たり前だし、その周りとの差こそが完璧であると確信しています。
もし、自分が何かしらの弱点を抱えていたとしても大丈夫です。
それで普通なのです。
大切なのはその弱点を抱えたままどう生きていくのか。
やけに葉の少ない木も、幹の細すぎる木も、すごい生え方をした木も、堂々と生きています。
自分が出せる最大限の逞しさ、美しさを彼らは表現しています。
これを見習って、彼らのようにしっかりと心に根を張り力強く生きていくことが大切なのだと思いました。
もし完璧主義がやめれないという方がいらっしゃいましたら、是非近場の森でも公園でも、木々の並んでいるところに行ってみてください。
この世に完璧なんて存在しないと理解できると思います。