人生を変えたい「あなた自身」を変える「欠乏学」

環境を変える前に、恐怖に支配されたOSを書き換える。執着を手放し、人生を主体的に生きるための思考法。

なぜ僕たちは熊を絶滅させ、他者を叩きたくなるのか?「必要性の呪縛」から逃れるための心理学

役に立たないものを排除したくなる、僕たちの内なる凶暴さ

最近、日本で熊の出没が相次ぎ、その対策を巡って激しい議論が交わされています。

その中で「熊なんて絶滅させてしまえばいい」という極端な意見を耳にすることがありますよね。

あるいは、ネット上で少しでも「劣っている」と見なされた誰かが、集団で叩かれ、社会的に抹殺される光景を日常的に目にします。

これらは一見、正義感や安全への希求に見えますが、その根底にあるのは、もっとドロドロとした、人間特有の「エゴ」ではないでしょうか。

 

僕たちは無意識のうちに、あらゆるものを「自分にとって役に立つか、必要か」という物差しでジャッジしています。

そして、自分の生活を脅かすもの、あるいは自分に利益をもたらさないものを、まるでない方がいい「バグ」のように扱い、排除しようとする。

 

でも、考えてみてほしいのです。

その「必要かどうか」という視点は、あまりに人間中心的な、身勝手な論理ではないでしょうか。

自国の利益のために他国を侵略する戦争屋と、その本質において何が違うというのでしょう。

 

 

 

役に立つかどうかで人を愛していた、かつての僕の失敗

偉そうなことを言っている僕自身、かつてはこの「必要性の呪縛」に深く囚われていました。

 

以前、お付き合いしていた女性がいました。

当時の僕は、彼女のことを一人の人間として、その存在そのものを愛していたわけではありませんでした。

 

「彼女は僕の仕事の支えになるか」

「僕を成長させてくれるか」

「僕の価値を高めてくれる存在か」

 

そんな、相手をスペックや利便性で測る「市場価値の物差し」で彼女を見ていたのです。

 

結果として、僕は彼女を手放しました。

自分にとって「不必要」だと判断したからです。

 

しかし、恐ろしいのはその後でした。

他人を「役に立つかどうか」でジャッジしていた僕は、同時に「自分も他人からそう見られている」という強烈な恐怖に襲われるようになったのです。

 

「誰かの役に立たなければ、僕には存在価値がない」

「成果を出さなければ、僕は切り捨てられる」

 

そう思い込み、必死に何かの「役」に立とうと、自分を削って努力し続けました。

でも、どれだけ成果を出しても、心の底から安心できる日は来ませんでした。

 

なぜなら、僕が立っていた場所は「条件付きの承認」という、いつ崩れるかわからない砂上の楼閣だったからです。

ゾンビ映画のリーダーは、決してゾンビを全滅させようとはしない

ここで、少し視点を変えて「ゾンビ映画」の話をさせてください。

 

絶望的な状況下で生き残る人々を描いた物語において、最も重要なシーンはどこでしょうか。

それは、派手な戦闘シーンではありません。

生存者たちが必死に家具を積み上げ、窓を塞ぎ、「バリケード」を作るシーンです。

 

有能なリーダーは、外にいる何万体ものゾンビを「全滅させてやる」などとは考えません。

そんなことをすれば、弾薬も体力も底をつき、自分たちが全滅するのが目に見えているからです。

 

彼らがやることは、徹底して「分ける」ことです。

ゾンビが徘徊する「死の世界」と、自分たちが人間として呼吸する「生の世界」。

その間に明確な境界線を引き、自分たちの「安全基地」を死守する。

このバリケードこそが、彼らにとっての知性の象徴です。

 

熊の問題も同じです。

絶滅させるという極論は、相手をコントロールしようとする慢心です。

そうではなく、町に降りてこないように柵を作る、住処を分ける。

この「棲み分け」という能動的な工夫こそが、僕たちが選ぶべき道ではないでしょうか。

コミュニティを崩壊させるのは、外の敵ではなく「内なるジャッジ」である

ゾンビ映画には、必ずといっていいほど「嫌な奴」が登場します。

食料が少なくなると、「役に立たない老人は追い出せ」「怪我人は足手まといだ」と主張し始める人物です。

 

実は、この人物こそが、最も「生存への不安」という欠乏感に飲み込まれた、精神的に未成熟な状態にあります。

 

彼らは、外の世界の残酷な論理(強いものだけが生き残るという弱肉強食のルール)を、そのまま自分たちのコミュニティの内側に持ち込んでしまいます。

しかし、バリケードの内側までその論理で染まってしまったら、そこはもう「安全基地」ではありません。

ただの「小さな戦場」です。

 

職場やSNSで、仕事ができない人を孤立させたり、劣っている人間を叩いたりする人々も、これと同じ心理状態にあります。

 

彼らは、自分の内側にある「いつか自分も排除されるかもしれない」という恐怖を打ち消すために、生贄を探して攻撃しているに過ぎません。

そんな排他的な人々に、「そんな生き方は間違っている」と説得したくなるかもしれません。

 

でも、悲しいかな、人は簡単には変わりません。

彼らもまた、自分自身の欠乏感という怪物に必死に抗っている最中だからです。

攻撃する代わりに、静かに「心理的バリケード」を築く

では、僕たちはどうすればいいのでしょうか。

 

僕が提案したいのは、気に食わない相手や、自分に害をなす存在を「攻撃して排除する」という選択肢を捨てることです。

その代わりに、自分自身の心の中に、しなやかで強固な「心理的バリケード」を築いてください。

 

それは、相手を変えようとせず、ただ「距離を置いて関わらない」という知性ある選択です。

 

「あの人はああいう生き方しかできないのだな」

「今の僕には、あの人のエネルギーを受け止める余裕はない」

 

そう認めた上で、そっと柵を立てる。

物理的な距離、あるいは心の距離を置く。

 

これは逃げではありません。

自分の内側にある「安らぎと回復の空間」を守るための、極めて能動的でクリエイティブな、自分自身への「愛」の形なのです。

 

自分を攻撃してくる相手にやり返しているうちは、あなたもまた、相手と同じ「攻撃と排除の論理」の中に閉じ込められています。

バリケードを築き、その内側で「自分は自分のままでいい」という無条件の安心感を育むことができたとき、初めて、あなたは外の世界の喧騒から自由になれます。

 

 

 

まとめ

熊を絶滅させようとする衝動も、誰かをSNSで叩く指先も、元カノをスペックで測ったかつての僕の過ちも。

その正体はすべて、自分の中の「欠乏感」が鳴らす警報でした。

 

でも、もうそのアラートに振り回される必要はありません。

 

世界には、どうしても相容れない存在がいます。

コントロールできない現象があります。

それらを無理にねじ伏せようとするのをやめてみてください。

 

「戦う」のではなく「分ける」。

「排除する」のではなく「距離を置く」。

 

この視点を持つだけで、世界は驚くほど静かになります。

明日、もしあなたの心をざわつかせる誰かに出会ったら、心の中でそっと家具を積み上げ、美しいバリケードを作ってみてください。

 

その柵の内側にある穏やかな時間が、あなたという唯一無二の存在を、ゆっくりと癒してくれるはずです。

 

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