
僕たちの日常は、無意識のうちに下される「ジャッジ」で溢れかえっています。
例えば、街ですれ違った人の香水の匂いが鼻を突いたとき。
あるいは、満員電車で隣り合った人の体臭を感じたとき。
僕たちの脳内では、即座に「あ、臭い」という言葉が浮かびます。
そして多くの場合、その言葉は「不快感」という感情を超えて、対象を「悪いもの」として断罪するニュアンスを含んで放たれます。
しかし、ここで立ち止まって考えてみてほしいのです。
それは本当に「悪い」ことなのでしょうか。
僕が提唱している「欠乏学」の視点から見れば、この「臭い」という言葉の選択こそが、僕たちが抱える生きづらさの正体であり、自分自身を不自由な檻に閉じ込めている原因そのものなのです。
善悪という鎖から自分を解き放つ言葉
「臭い」という表現には、ある種の「普遍的な事実」であるかのような響きがあります。
それを口にした瞬間、対象は「社会的に排除されるべき悪」というレッテルを貼られ、その場にいる全員が共有すべき負の属性として固定されてしまいます。
そこには、発話者の責任はなく、あたかも「世界がそう決めている」かのような暴力性が潜んでいる。
一方で、「僕は、その匂いが好きではない」と言い換えてみるとどうでしょうか。
この瞬間、問題の所在は「対象」から「自分の内側」へと劇的に移動します。
匂いそのものが悪いのではなく、あくまで「僕の好み」と「その匂い」の相性が良くないだけである。
この言い換えによって、対象は「悪」という汚名から解放され、同時に僕自身も「世界を正しく裁かなければならない」という重責から解き放たれます。
これは、世界に対する「主権」を自分に取り戻す行為に他なりません。
「正しい・間違い」や「優・劣」という、外部社会が勝手に作り上げた物差しを一度手放すこと。
そして、「自分に合うか、合わないか」という自分だけの物差し(内的観測)で世界を再定義すること。
この小さな一歩が、実は僕たちの精神的な自由を決定づけるのです。
「馬鹿」という言葉で誰かを傷つけた僕の後悔
このように偉そうに語っている僕自身も、かつては外部の物差しを振り回して、大切な人を深く傷つけてしまった苦い経験があります。
学生時代、僕は友人の一人に対して「お前って本当に馬鹿だよな」という言葉を、冗談めかしながらも吐いてしまったことがありました。
当時の僕にとって、「勉強ができないこと」や「効率的に物事を進められないこと」は、明確な「悪」であり、克服すべき「欠乏」だったのです。
僕は自分の持っている「成績」や「要領の良さ」という狭い物差しを正義だと信じ込み、その基準に満たない友人を、無自覚に「劣った存在」としてジャッジしていました。
しかし、今なら痛いほどわかります。
勉強ができないことは、その人の属性の一部に過ぎず、決して「悪いこと」ではありませんでした。
僕が感じていた苛立ちは、単に僕の価値観と彼のスタイルが「合わなかった」だけであり、それを「馬鹿(=悪い)」と表現してしまったのは、僕の傲慢さゆえの過ちでした。
「馬鹿」という言葉も、「臭い」と同じです。
それは対象を「普遍的に欠陥があるもの」として定義し、その存在そのものを否定する毒を持っています。
もしあの時、僕が「君のその考え方は、僕の好みではないけれど、面白いね」と言えていたら、どれほど彼を、そして自分自身を救えていたでしょうか。
誰かを裁く言葉を放つとき、僕たちの心の中には、同時に「自分もそうでなければならない」という呪いが生まれます。
友人を「馬鹿」と裁いた僕は、同時に「自分は馬鹿であってはならない。常に有能で、正解を出し続けなければならない」という目に見えない鎖で自分を縛り上げていた。
他者を許さないことは、自分を許さないことと地続きなのです。
新幹線で隣り合った「不快感」にどう責任を持つか
ここで、よりシビアな現実的な問題を考えてみましょう。
読者の中には、「そうは言っても、実際に実害がある場合はどうするんだ?」と疑問に思う方もいるはずです。
例えば、新幹線で隣の席に座った人が非常に大柄で、自分の座席が物理的に狭くなってしまったとき。
あるいは、隣の人の体臭があまりに強く、気分が悪くなってしまうとき。
これらは、単なる「好み」の問題を超えた「実害」と言えるかもしれません。
しかし、ここでも僕は「デブだから迷惑だ」「臭いから悪い」という言葉を使うべきではないと考えます。
なぜなら、その大柄な人も、その体臭を持つ人も、決して誰かを不快にさせようとしてそうなったわけではないからです。
本人に悪意がない以上、そこに「善悪」を持ち込むのは筋違いです。
「座席が狭くて不快だ」と感じているのは、あくまで「僕」という主体です。
そして、その不快感に対して僕ができる誠実な対応は、「相手を悪者にすること」ではなく、「自分の不快感に自分で責任を持つこと」です。
具体的には、「この状況は僕にとって非常に窮屈で、心地よくない」と自分の感覚を認めることです。
必要であれば、車掌さんに「座席が狭く感じてしまって辛いので、席を替えていただけませんか?」と相談すればいい。
そこに「相手が悪い」というニュアンスを混ぜる必要はありません。
言葉に責任を持つとは、自分の感情の源泉を、他者のせいにしないということです。
相手を「デブ」や「臭い」と罵倒することで得られる一時的な優越感は、欠乏を埋めるための「麻薬」に過ぎません。
それは根本的な解決にはならず、むしろ自分の中に「正しくないものを許せない」という攻撃性を蓄積させるだけなのです。
他者を裁くことは、自分を牢獄に閉じ込めることと同じ
「欠乏学」において最も重要な洞察の一つは、「外部社会の評価軸を、自分の内側に持ち込まない」ということです。
僕たちが誰かを「臭い」「馬鹿だ」「仕事ができない」と裁くとき、僕たちは無意識のうちに「外部社会の検察官」を演じています。
社会が決めた平均像や理想像から外れた人間を摘発し、断罪することで、「自分はまだマシな側にいる」という束の間の安心感を得ようとする。
これが、以前お話しした「相対的な自己肯定の罠」です。
しかし、この検察官は、他人を裁き終わった後、必ずその切っ先を自分自身に向けてきます。
「お前は臭くないか?」「お前は馬鹿だと思われていないか?」「お前は社会の役に立っているか?」と。
他人を「現象」としてではなく「善悪」で捉えている限り、自分自身もまた、常に善悪の審判にかけられ続けることになります。
これは、一瞬の油断も許されない、あまりにも過酷な生き方です。
「臭いんじゃなくて、好きな匂いじゃないんだよ」。
この一言は、世界に対する宣戦布告であり、同時に究極の和解でもあります。
「世界がどう定義しようと、僕は僕の感覚を信じる。そして、僕が僕の感覚を大切にするように、君が君であることも否定しない」。
この視点を持つことで、あなたの世界から「敵」がいなくなります。
目の前の嫌な出来事は、単なる「自分とは波長の合わない現象」へと姿を変え、あなたはそれをただ静かに避けるか、受け流すことができるようになります。
まとめ
「臭い」という断定を捨て、「好きではない」という主観を選ぶこと。
それは、言葉の遊びではありません。
あなたの人生を「評価と競争」の戦場から、「受容と調和」の庭へと作り変えるための、哲学的な決断です。
事象そのものに「悪」を貼り付けるのをやめましょう。
それは単なる「現象」としてそこにあり、あなたはそれを「好きか嫌いか」で選別する権利を持っている。
ただそれだけのことなのです。
この境界線を明確に引けるようになったとき、あなたは驚くほど自由になれます。
誰かを裁くエネルギーを、自分を心地よくさせるためのエネルギーへと転換できるようになります。
他人の欠乏(足りなさ)を攻撃するのではなく、自分の内側にある感覚を丁寧に育むことができるようになります。
もし今日、あなたが何かに対して「これは悪いものだ」と怒りや不快感を覚えたら、少しだけ心の中で唱えてみてください。
「これは悪いんじゃなくて、僕の好きなタイプじゃないだけなんだ」と。
その瞬間、あなたの心にかかっていた鎖が、音を立てて外れるはずです。
世界は相変わらず不完全で、時々変な匂いがするかもしれません。
でも、それを裁く必要がないと知ったあなたの心は、何よりも清らかで、自由な場所になっているはずですから。
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