
誰かのためを思ってした行動なのに、相手からは感謝されなかったり、むしろ誤解されたりして、心が少し疲れてしまった経験。
あるいは、「こんなに尽くしているのに、どうして分かってもらえないんだろう」と、報われなさを感じたこと。
または、「これって本当に愛なんだろうか」「自分はただの自己満足をしているだけなんじゃないか」と、不安になったことがある人もいるかもしれません。
僕自身、そうした感情に何度も向き合ってきました。
そして、考え続ける中で、ひとつの答えに辿り着いたのです。
それは、愛とは、相手にどう思われるかではなく、相手の成長を願って行動することなのではないか、と。
- 相手がどう感じるかより、「何が必要か」を考える
- 水をあげる行為は、支配でも自己犠牲でもない
- 子育てにおける「水をあげる愛」
- 仕事や人間関係でのすれ違い
- 愛が苦しくなる理由は「見返り」を求めてしまうから
- それでも「分かってもらえない苦しさ」を感じるあなたへ
- 愛とは、在り方であり、選択である
- まとめ
相手がどう感じるかより、「何が必要か」を考える
僕は、愛をこう表現しています。
「君が僕をどう思っていようが、今日も僕は君に水をあげる。それは、僕が君の成長を願っているからだ。君がきれいに咲き誇っているところを見るのが、僕の幸せなのだ。」
ここで大切なのは、「水をあげる」という行為の理由です。
相手に好かれたいからでも、感謝されたいからでもありません。
相手がより良くなるために必要だと思うから、水をあげている。
ただそれだけです。
多くの人は、「相手がどう感じるか」を基準に行動してしまいます。
嫌われたくない、怒らせたくない、評価されたい。
そうした気持ちはとても人間的ですし、決して悪いものではありません。
しかし、その基準で行動すると、どうしても愛は不安定になります。
なぜなら、相手の反応次第で与えるか与えないかが揺れてしまうからです。
一方で、「相手の成長にとって必要かどうか」を基準にすると、行動は静かで、しかし一貫したものになります。
水をあげる行為は、支配でも自己犠牲でもない
ここで誤解されやすいのは、「相手のためを思って行動する」という言葉が、支配や押しつけ、あるいは自己犠牲と混同されてしまうことです。
たとえば、「あなたのためだから言っているのよ」「ここまでしてあげているんだから」
といった言葉の裏には、相手をコントロールしたい気持ちや、見返りを求める心が隠れていることがあります。
しかし、僕が言う「水をあげる愛」は、それとはまったく違います。
水をあげるけれど、咲くかどうかは花に委ねる。
水をあげたからといって、咲く義務を課さない。
思ったように育たなくても、責めない。
これは、相手を信頼しているからこそできる態度です。
つまり、相手を自分の感情の延長として扱っていない。
相手を「別の存在」として、きちんと尊重しているということなのです。
子育てにおける「水をあげる愛」
分かりやすい例として、子育てを考えてみましょう。
子どもが嫌がるからといって、まったく注意しない。
叱ると嫌われそうだから、見て見ぬふりをする。
これは一見、優しさのように見えますが、実は子どもの成長を止めてしまうことがあります。
一方で、子どもにとって必要だと思うことを、嫌われる覚悟で伝える親もいます。
そのとき、子どもは怒るかもしれませんし、反発するかもしれません。
「なんで分かってくれないんだ」と思うかもしれません。
それでも親が伝えるのは、「今は理解されなくても、将来この子が自分の足で立てるように」という願いがあるからです。
これはまさに、水をあげる行為。
子どもがどう感じるかはコントロールできない。
でも、成長に必要だと思うことを差し出す。
それが、愛のひとつの形だと僕は思います。
仕事や人間関係でのすれ違い
職場や友人関係でも、同じことが言えます。
相手のミスを指摘するべきか、黙っているべきか。
アドバイスをするべきか、放っておくべきか。
こうした場面で悩んだことがある人は多いでしょう。
「言ったら嫌われるかもしれない」
「でも言わなかったら、この人は成長できないかもしれない」
この葛藤は、とても苦しいものです。
ここで大切なのは、「自分がどう思われたいか」ではなく、「相手にとって何が必要か」を問い直すことです。
相手の成長を本気で願うなら、時には耳の痛いことを伝える必要があります。
その結果、距離ができることもあるでしょう。
それでも、水をあげる。
なぜなら、それが相手の未来にとって必要だと思うからです。
愛が苦しくなる理由は「見返り」を求めてしまうから
多くの人が「愛は苦しい」と感じてしまう理由は、愛そのものではなく、そこに期待や見返りを乗せてしまうからです。
「これだけやったんだから、分かってほしい」「大切にしたんだから、同じように返してほしい」こうした気持ちがあると、相手の反応が思い通りでないとき、怒りや悲しみが生まれます。
しかし、水をあげる愛には、そもそも見返りがありません。
咲いてくれたら嬉しい。
でも、咲かなくても、水をあげたという事実は変わらない。
この姿勢に立てたとき、愛は不思議と軽くなります。
そして、自分自身もすり減らなくなるのです。
それでも「分かってもらえない苦しさ」を感じるあなたへ
ここまで読んで、「頭では分かるけど、それでも苦しい」と感じた人もいるかもしれません。
それは当然です。
人は感情の生き物ですし、理解されたい、愛されたいという欲求を持っています。
だから、分かってもらえなかったときに傷つくのは、弱さではありません。
ただ、ひとつ覚えておいてほしいのは、相手の反応はあなたの価値を決めるものではないということです。
あなたが水をあげたという事実は、相手がどう感じようと消えません。
それは、あなたがあなた自身の基準で選び取った行動だからです。
愛とは、在り方であり、選択である
愛は感情だと思われがちですが、僕は「在り方」だと思っています。
その人がどんな基準で行動を選び、どんな姿勢で他者と向き合っているか。
その積み重ねが、愛という形になって現れる。
相手の成長を願い、水をあげる。
その行為は、静かで、目立たなくて、報われないことも多いかもしれません。
それでも、確かに誰かの人生に影響を与えています。
そして同時に、そうした愛を選び続けるあなた自身も、確実に成熟していきます。
相手の反応に振り回されず、自分が正しいと思う基準で愛すること。
それは簡単なことではありません。
しかし、その先には、依存でも執着でもない、穏やかで強い関係性が待っていると、僕は信じています。
まとめ
今日も、誰かに水をあげているあなたへ。
たとえ今は伝わらなくても、その行為は決して無駄ではありませんからね。
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