
こんな経験ありませんか?
朝起きるのがしんどい、仕事に行くのが億劫、人間関係を維持するのが疲れる。
あるいは、特別な理由があるわけでもないのに、人生そのものがなんとなく重たく感じる。
誰にだってそんな日があります。
そして多くの人が「なんでこんなにめんどくさいんだろう」「なんでみんな普通に生きられるんだろう」と、理由のわからない生きづらさにため息をつきます。
僕も同じです。
「生きること自体がめんどくさい」という感覚は、生きている限りずっとつきまといます。
しかし最近、僕はそのめんどくささには重要な意味があることに気づきました。
そして同時に、現代社会の「過保護」が、その重要な意味を奪っている可能性があると感じています。
つまり、生きるめんどくささに慣れる機会=欠乏感と向き合う機会を、過保護が奪ってしまっているのではないかということです。
この記事では、なぜ過保護が人から生きる力を奪うのか、そして「めんどくささ」にどう向き合えば楽になるのかを、具体例をまじえながら丁寧に掘り下げていきます。
- 生きることは本来めんどくさいものです
- しかし過保護は、そのめんどくささに触れる機会を奪う
- 「めんどくささ」とは欠乏感の入口である
- 過保護は欠乏感との対面機会を奪う
- めんどくささに慣れるとは、欠乏感を扱う力を育てるということ
- めんどくささを避け続けると、人生はどんどん重くなる
- あなたが「生きるのがめんどくさい」と感じているなら
- まとめ
生きることは本来めんどくさいものです
まず大前提として、生きることは本来めんどくさいものです。
これはネガティブな意味ではありません。
生きるという行為には「生命を維持するためのタスク」が大量に組み込まれているという、ただの事実です。
ご飯を作る、働く、移動する、掃除する、他者と関わる、体調管理をする。
これらはすべて「めんどくさい」と感じる種になり得ます。
つまり、めんどくささは生きている証であり、自然な生理現象のようなものです。
ところが、僕たちは長い人生の中で、この「めんどくささ」とうまく付き合う術を身につけていきます。
やり方は人それぞれですが、何度も経験し、何度もぶつかり、それでもなんとか乗り越えていく。
その積み重ねこそが生きる力になっていきます。
しかし過保護は、そのめんどくささに触れる機会を奪う
ここで問題になるのが過保護です。
「過保護」というと、子育てだけの話だと思われがちですが、実は家庭以外にもたくさん存在します。
学校の過保護
職場の過保護
社会制度の過保護
テクノロジーによる過保護
どれも表面的には優しさに見えます。
しかし、その優しさが人から「生活の負荷を受ける機会」を奪うことがあるのです。
例えば、こんな場面を思い浮かべてみてください。
子どもの靴を親が毎回履かせてあげる
一見すると愛情深い行為ですが、子どもは靴を履くという小さなめんどくささと向き合う機会を失います。
やったことのない行為は、やがてますますめんどくさくなります。
学校が「失敗させない」仕組みを整えすぎる
たとえば、忘れ物をしても先生がすぐにフォローする。
課題を忘れてもリカバリーを用意してくれる。
優しさですが、責任を取るめんどくささを体験できません。
社会が「便利さ」で負荷を取り除いていく
ボタンひとつで食事が届き、移動も手続きもほとんど自動化される。
これは便利ですが、生きるための手間が減ることで、僕たちはめんどくささへの耐性を失っていきます。
こうした環境の中では、生きるために必要な「軽い苦労」に触れる前に、すべてが先回りして解決されてしまうという現象が起きます。
その結果、人生で初めて本物のめんどくささがやってきたときに対応できず、苦しさが増すのです。
「めんどくささ」とは欠乏感の入口である
ここからが本題です。
僕は、めんどくささとは欠乏感の入り口だと考えています。
欠乏感とは、生命が何かを必要としているサイン。
そして、それを満たすために行動を促す原動力です。
例えば
お腹が空く → 食べる
孤独 → 誰かと話す
認められない → 努力する
不安 → 準備や計画をする
これらの行動はすべて「欠乏感」によって駆動されています。
つまり、人生のやる気の根本はすべて欠乏感から生まれています。
しかし、欠乏感が生まれる直前のサインこそが、あのめんどくささなのです。
「料理するのめんどくさい」
「行動するのがめんどくさい」
「人と話すのがめんどくさい」
こうした感情は、欠乏感の前段階で起きる「行動前の抵抗」です。
過保護は欠乏感との対面機会を奪う
だからこそ、過保護の問題点は明確です。
過保護が奪っているものは、単なる負荷ではありません。
もっと重要な、欠乏感そのものと向き合う機会を奪ってしまっているのです。
めんどくささを避けるとどうなるか?
行動しなくなる。
行動しないと欠乏感を処理する経験が積めない。
経験が積めなければ、自立が育たない。
つまり、過保護は「精神的な成長の教材」を奪ってしまう行為なのです。
人は欠乏感と向き合い、それを自分の力で処理することで、やっと精神的に成熟していきます。
しかし、過保護が強すぎると、このプロセスが断絶されてしまうのです。
めんどくささに慣れるとは、欠乏感を扱う力を育てるということ
では、どうすれば僕たちはめんどくささとうまくつきあえるのでしょうか?
その答えはシンプルで、めんどくさいことに、小さなところから慣れていくことです。
めんどくささは一種の負荷。
負荷は慣れることで軽くなり、筋力のように扱えるようになります。
実際、僕たちは子どもの頃にたくさんのめんどくさいことを練習してきました。
服を着ること、字を書くこと、片付けをすること、宿題をすること。
どれも最初はものすごくめんどくさかったはずです。
でも、いつの間にかできるようになった。
それは慣れたからです。
つまり、めんどくささに慣れるとは、欠乏感と向き合う耐性を育てるということなのです。
めんどくささを避け続けると、人生はどんどん重くなる
逆に、めんどくささを避け続けるとどうなるでしょうか?
やったことのない行動は、どんどんハードルが上がっていきます。
そして、日常生活の些細なことですら、巨大な障害のように感じられるようになるのです。
その結果、「生きることのめんどくささ」が、以前より何倍も大きく感じられるようになります。
つまり、避ければ避けるほど、めんどくささは増幅するという自然法則が働きます。
あなたが「生きるのがめんどくさい」と感じているなら
僕は声を大にして言いたいのですが、「生きるのがめんどくさい」と感じてしまうあなたは、決して弱いわけではありません。
怠けているわけでもありません。
その感覚は、あなたの内側にある欠乏感が発している自然なサインです。
むしろ、ちゃんと感じ取れているからこそ出てくるもの。
もし今、めんどくささに押しつぶされそうなら、小さな一歩でかまいません。
たとえば、部屋の一角だけ片付ける。
皿をひとつだけ洗う。
簡単なメールだけ返信する。
散歩を5分だけしてみる。
ほんの小さな「めんどくさい」に向き合うだけで、人の心は確実に変わります。
まとめ
めんどくささは、生きる上で避けられないものです。
そして、そのめんどくささは欠乏感の入り口であり、人が成長するための原動力でもあります。
だからこそ、過保護によって「めんどくささに触れる機会」が奪われることは、欠乏感との対面機会を奪われること、そして精神的な成熟の機会を奪われること
なのです。
めんどくささは悪ではありません。
むしろ、生きる力の源です。
僕たちはめんどくささとともに生き、めんどくささによって育ち、めんどくささを越えることで強くなります。
どうか今感じているその「生きるのがめんどくさい」という感情を、否定しないでください。
それは、あなたが前に進むための重要なサインなのですから。
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