
「人はルールを持つと、そのルールの中でしか生きられなくなる」この言葉を聞いて、あなたはどう感じるでしょうか。
「ルールは守るものだし、社会生活には必要不可欠だ」「でも確かにルールに縛られると、窮屈さを感じることもある」こんな風に思うかもしれません。
ただ、僕がこの記事で伝えたいのは、「ルールを破れ」とか「規律は無意味だ」という極端な話ではありません。
大切なのは、ルールを絶対視せず、数ある選択肢のひとつとして捉えることではないかということです。
それができると、規範意識(〜すべきという思い込み)から自由になり、もっと柔軟で主体的な生き方ができるようになるのです。
この記事では、心理学的な側面、日常生活の具体例、そして欠乏学的な視点も交えながら、ルールと自由の関係について深掘りしていきます。
- ルールはなぜ人を縛るのか
- ルールを選択肢と捉えるとはどういうことか
- 具体例で考える「ルールは選択肢」
- 規範意識からの脱却が自由を生む
- 欠乏学的にみるルールと自由
- ルールを選択肢として扱うための実践法
- まとめ
ルールはなぜ人を縛るのか
まず考えてみたいのは、「なぜ人はルールに縛られてしまうのか」という点です。
安全と秩序を守るための役割
ルールはそもそも、集団生活を円滑にするために作られたものです。
たとえば交通ルール。
赤信号で止まるからこそ、事故が減り、安心して道を歩けます。
学校の校則や会社の規則も、一定の秩序を保つためには機能しています。
「守らなければならない」という心理的圧力
しかし一度ルールを持つと、人は「それを守らなければならない」という意識に支配されます。
「破ったらダメ」「常識外れと思われる」そんな不安が強くなると、ルールの外にある可能性に目を向けられなくなります。
内面化された規範意識
もっとやっかいなのは、ルールが外部の制約ではなく、自分の心の中の規範意識として内面化されるときです。
「成功するにはこうあるべき」
「いい親はこうしなければならない」
「男なら泣いてはいけない」
こうした思い込みの多くは、ルールという形をとって心の中に根づき、それが本人を苦しめてしまうのです。
ルールを選択肢と捉えるとはどういうことか
では、「ルールは選択肢の一つとして捉える」とはどういう意味でしょうか。
それは、ルールを「必ず守らなければならないもの」として絶対視するのではなく、
守ることもできるし、場合によっては守らないこともできるという選択肢の一つと考えるということです。
この視点を持つと、ルールに縛られることなく、状況に応じて柔軟に行動できるのです。
具体例で考える「ルールは選択肢」
ここからは、身近な例をいくつか挙げてみます。
1. 交通ルール
赤信号は止まる。これは大原則です。
しかし、深夜の田舎道で、信号が壊れて赤のまま変わらず、周囲に車も人もいないとしたらどうでしょう。
形式的に赤信号を守り続けるのも一つの選択肢ですが、安全確認をして渡るという選択肢もあります。
もちろん常に破れという話ではありません。
大切なのは、「ルールは安全のための手段であって目的ではない」と理解することです。
2. 学校の校則
髪型や服装に関する厳しい校則。
「ルールだから従うしかない」と思えば、自分を押し殺して我慢するしかなくなります。
一方で、「先生に相談して緩和を求める」「自分の表現を大事にしてみる」という選択肢も実は存在します。
3. ビジネスマナー
名刺の渡し方や敬語の使い方。
「ルールに従わなければ非常識だ」と思うと、必要以上に緊張してしまいます。
でも、本来の目的は相手との信頼関係を築くこと。
「最低限のマナーを押さえた上で、相手が心地よいかどうかを優先する」という柔軟さも選べます。
4. 子育てのルール
「子どもは夜9時までに寝かせるべき」
「お菓子は1日1個まで」
こうした家庭内ルールも多いですが、それを絶対視すると親も子も苦しくなります。
「今日は特別な日だから遅くまで一緒に遊ぼう」
「風邪で食欲がないからお菓子なら食べられる」
そんな柔軟な選択ができたとき、親子の関係はむしろ豊かになります。
規範意識からの脱却が自由を生む
僕が特に伝えたいのは、ルールを選択肢として捉えることが、規範意識からの脱却につながるという点です。
「〜すべき」「〜でなければならない」といった規範意識は、人を縛り、欠乏感を強めます。
「いい人でなければならない」
「完璧でなければならない」
「愛されなければならない」
こうした思い込みが、僕たちを不自由にし、自己否定や不安を生み出すのです。
逆に、「そうするのも選択肢だし、しないのも選択肢」と考えると、自分で決めて生きている感覚が強まります。
これが主体性であり、自由の本質なのです。
欠乏学的にみるルールと自由
僕の研究テーマである「欠乏学」の観点からも、ルールの問題は興味深いです。
欠乏学では、欠乏感を「生命維持のために働く心理的機能」として捉えます。
所属・愛の欲求や承認欲求が満たされないと、人は不安を感じ、それを埋めるために行動しますが、ルールはその欠乏感と結びつきやすいのです。
「ルールを守らなければ愛されない」
「ルールを破ったら仲間外れになる」
そう思うことで、ルールが自分を縛りつけ、自由を奪います。
でも、「ルールは選択肢にすぎない」と認識できれば、欠乏感に振り回されず、自立した行動が取れるようになります。
つまり、ルールに対して主体的な態度を持つことは、精神的成熟の証でもあるのです。
ルールを選択肢として扱うための実践法
ここからは、僕自身が意識している「ルールを選択肢として扱うための実践法」を紹介します。
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ルールの目的を考える
そのルールは何のためにあるのか?守ることで誰が得をするのか?を問い直します。 -
自分の価値観と照らす
そのルールを守ることが、自分にとって本当に大切なことと一致しているかを考えます。 -
例外を許す
「いつでも必ず守らなければならない」とは考えず、「この状況では守らない方がいいかもしれない」と柔軟に捉えます。 -
意識的に破る経験をしてみる
小さなルールで構いません。例えば「今日はあえてマナー通りにしない」など。
その経験を通して「破っても大丈夫だった」という実感を積み重ねることが大切です。
まとめ
「人はルールを持つと、ルールの中でしか生きられない」
確かにそれは真実です。
でも、ルールを絶対視せず、数ある選択肢の一つとして扱うことができれば、僕たちはもっと自由に、主体的に生きることができるのです。
社会的なルールも、心理的なルールも、本来は僕たちを守るために存在していますが、それが目的化し、規範意識に変わると、自分を縛る鎖になってしまいます。
だからこそ、「ルールを選択肢にする」という視点を持つことが大切なのです。
そうすることで、欠乏感に振り回されることなく、自分の意思で生きていくことができるでしょう。
あなたもぜひ、日常生活の中で一つひとつのルールを見直してみてください。
「守る」ことも「守らない」ことも、どちらも選べる自分であることを確認するだけで、心が少し軽くなるはずです。
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