
先日、僕は温泉に行ったときにある気づきを得ました。
館内を歩いていると、清掃が行き届いている部分もあれば、絨毯のシミや壁の汚れなど、少し気になる部分もある。
ぱっと見では清潔で快適なのに、細部を見た瞬間に「惜しい」と思ってしまう、あの感覚です。
そのとき僕はふと考えました。
清掃というのは「すべてを完璧にすること」ではなく、「どこまでを“当たり前”とするか」で体験の質が変わるのだと。
この気づきは、サービス業だけでなく、僕たち自身の生き方にもそのまま当てはまります。
なぜなら、人生の“清潔感”も、どこに当たり前の基準を置くかで決まるからです。
- 当たり前の3層構造
- 人生にも“当たり前のライン”がある
- 当たり前を上げるとは、基準を更新すること
- サービスの価値と人間の価値は同じ構造でできている
- 当たり前の基準を上げると、世界が変わって見える
- 当たり前の基準を上げる=自己再教育である
- 当たり前の基準を上げるには「観察」と「行動」が鍵
- 当たり前を上げる人は、欠乏を原動力にしない
- 当たり前を上げる人は、信頼される
- まとめ
当たり前の3層構造
温泉施設を観察していると、「当たり前」の構造には3つの層があることに気づきました。
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必ず清掃している「当たり前」
これは最低限のライン。お客様が安心して利用できるための基本的な約束です。 -
清掃しても無理な「構造上の問題」
これは施設の老朽化や立地、設備など、“努力ではどうにもならない領域”。 -
やればできるけど、やっていない部分
ここが本当の差を生むポイントです。
例えば、換気扇の埃、鏡の水垢、絨毯の端にあるほこりなど、どれも「やればできるけど、やってないこと」。
この「やればできるけどやってない」部分こそ、利用者の満足度や印象を決定づける要素です。
そして、それは僕たちの人生にもそのまま当てはまります。
人生にも“当たり前のライン”がある
僕たちの人生にも、施設の清掃と同じように「当たり前のライン」が存在します。
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最低限の当たり前(今の自分)
現状の生き方。
これは清掃でいう“日常清掃”のようなものです。特別な努力をしなくても維持されている部分。 -
どうにもならないこと(構造的な制約)
生まれ持った才能、家族関係、社会構造、変えられない過去など。
努力しても完全には変えられない部分。ここを責めても疲れるだけです。 -
やれば変わること(行動の余地)
習慣、人間関係の選び方、思考の整理、挑戦、学び。
これらは「やれば確実に変わるのに、やっていないこと」。
つまり、僕たちが不満を感じるとき、実は多くの場合この「やれば変わるのにやっていない部分」に対して感じているのです。
人生の“汚れ”は、放置された清掃可能な箇所にたまっていきます。
当たり前を上げるとは、基準を更新すること
ここで大切なのは、「どこを当たり前にするか」を自分で決めることです。
人生もサービスも、「当たり前ライン」を上げた瞬間に、価値が上がります。
たとえば
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部屋を毎日片付ける人にとって、それは“努力”ではなく“当たり前”です。
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感情を整理してから言葉を発する人にとって、それは“我慢”ではなく“習慣”です。
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挨拶や感謝を自然に伝える人にとって、それは“意識してやること”ではなく“呼吸”です。
当たり前の基準が上がると、それまで「すごい」と思っていたことが日常化します。
つまり、自分の価値が一段上がるのです。
サービスの価値と人間の価値は同じ構造でできている
施設が“やればできること”を積み重ねて価値を高めるように、人も“やればできること”を積み重ねて信頼や魅力を高めていきます。
たとえば
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「ありがとう」を言う
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ゴミを拾う
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約束を守る
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他人の立場を想像する
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言い訳をしない
どれも“やろうと思えばできること”です。
でも、これらを継続的に「当たり前」として行う人は、圧倒的に少ない。
だからこそ、それを自然にできる人が価値を持つ。
結局、価値とは「努力を当たり前に変えた人」が持つものなのです。
当たり前の基準を上げると、世界が変わって見える
面白いことに、当たり前の基準を上げると、世界の見え方まで変わります。
かつては「これで十分」と思っていたことが、「もう少しこうしたほうがいいかも」と気づけるようになる。
その感覚の変化こそが、成長の証です。
なぜなら、感受性が磨かれるということは、より細やかに現実を認識できるようになったということだからです。
温泉のちょっとした汚れに気づくようになったとき、それは文句ではなく、“より良い状態を知っている自分”になったという証でもあるのではないでしょうか。
当たり前の基準を上げる=自己再教育である
「当たり前」を上げるというのは、外に向けた努力ではなく、自分への再教育です。
僕たちは幼いころ、親や社会から「これが普通」「これが正しい」と教え込まれました。
しかし大人になった今、自分にとっての“普通”を更新しなければ、成長は止まります。
つまり
自分の中の“当たり前”を再教育することが、成熟である。
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「時間を守るのが当たり前」
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「自分の感情を理解するのが当たり前」
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「挑戦するのが当たり前」
こうした“当たり前”を自ら選び、意識的に再設定する。
それが、他人任せの生き方から自立した生き方へと変わる第一歩です。
当たり前の基準を上げるには「観察」と「行動」が鍵
では、どうすれば当たり前の基準を上げられるのか。
そのためのシンプルなステップを紹介します。
① 自分の“今の当たり前”を観察する
まず、自分が「当然」と思っている行動・思考を書き出してみます。
たとえば
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起きる時間
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食事の内容
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感情の処理の仕方
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人への接し方
これらはすべて、無意識に選んでいる「今の基準」です。
② “やればできるのにやっていないこと”をリスト化する
次に、「やればできる」と思いながら後回しにしていることを挙げます。
掃除、健康管理、学び、感謝の言葉など、どれも“清掃可能エリア”です。
③ 一つだけ“当たり前”に変える
いきなり全部を変えるのは難しい。
だからこそ、一つだけ選び、「努力」ではなく「当たり前」に変える。
続けているうちに、それが自分の“最低ライン”になります。
当たり前を上げる人は、欠乏を原動力にしない
多くの人が成長を求めるとき、「欠けているから」「まだ足りないから」といった欠乏感を原動力にします。
しかし、この動機は長続きしません。
なぜなら、欠乏を埋めるための行動は、満たされた瞬間に終わってしまうからです。
それに対して、「当たり前の基準を上げる」という発想は、自分を更新し続ける内発的なモチベーションになります。
欠乏を満たすためではなく、成長を楽しむために行動できる。
それが「自立した成長」であり、精神的成熟の象徴です。
当たり前を上げる人は、信頼される
ビジネスでも人間関係でも、信頼は「継続的に安定している人」に生まれます。
そしてそれは、派手な努力ではなく、“高い当たり前”の積み重ねからできています。
例えば、
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どんな状況でも約束を守る人
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常に清潔感を保っている人
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小さなことでも感謝を伝える人
こうした人は、一貫して「基準が高い」。
だからこそ、周囲は「この人は大丈夫」と感じる。
信頼とは、高い基準を揺るがずに守る力です。
まとめ
価値とは、他人に評価されることではなく、自分がどこに“当たり前”を置くかで決まります。
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「やればできるのにやっていないこと」を当たり前に変える
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「できない」と思っていたことを当たり前にしていく
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それを積み重ねていく
その先にあるのが、「自分の価値が上がる」ということです。
温泉の清掃も、人生の成長も、構造は同じです。
どこまでを“当然やること”とみなすかで、体験の質も、人生の質も変わる。
だから僕は思うのです。
当たり前の基準を上げていくことこそ、人生の価値を上げることだと。
そして、その“清掃”を怠らない人ほど、静かに、確実に、輝きを増していくのです。
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