
愛について考えるとき、僕たちは「相手に必要とされたい」「愛されたい」という欲求を自然に抱きます。
けれど現実には、必ずしも自分が相手にとって必要な存在になるとは限りません。
相手が僕を求めていないかもしれない。
それでも、僕の心の奥には「それでも愛したい」という想いが残ります。
この「それでも愛したい」という能動的な姿勢こそが、僕にとっての“あるべき愛の姿勢”だと思うのです。
愛は相手の反応や評価に左右されるものではなく、僕自身が選び、育てるもの。
この記事では、その愛の姿勢について深く掘り下げ、具体例を交えながら考えていきます。
- 愛は「必要とされること」だけではない
- 「それでも愛したい」という能動的姿勢
- 失恋から見える「能動的な愛」
- 家族との関係に見る「手放さない愛」
- 愛は「相手に委ねるもの」ではなく「自分で選ぶもの」
- 「それでも愛する」ことと執着の違い
- 「それでも愛したい」と思える心の成熟
- まとめ
愛は「必要とされること」だけではない
多くの人が「愛されたい」という気持ちを強く持ちます。
恋人、家族、友人、職場の仲間。人は誰しも、自分が誰かにとって必要な存在であると感じたいものです。
しかし、愛が「必要とされること」とイコールになってしまうと、相手が自分を必要としなくなったとき、その愛は簡単に揺らぎます。
例えば、長年付き合った恋人が突然「もうあなたのことを必要としていない」と告げてきたとしましょう。
そこで「必要とされないなら、もう愛せない」と思ってしまうなら、その愛は相手依存のもろいものです。
けれど「たとえ必要とされなくても、僕はあなたを愛したい」と思えるなら、その愛は相手に依存しない強さを持っています。
つまり、愛は「必要とされること」によって決まるものではなく、「自分がどう愛したいのか」という主体的な姿勢によって形作られるものなのです。
「それでも愛したい」という能動的姿勢
僕が大切にしたい愛の姿勢は、「それでも愛したい」というものです。
相手が僕を愛さなくても、僕が相手の幸せを願う気持ちは変わらない。
たとえ僕が不要だと感じても、僕の心から溢れる愛情は、僕自身の選択として存在し続けます。
これは自己犠牲とは違います。
「あなたのためなら自分を犠牲にする」というスタンスではなく、「僕が愛したいから愛する」という能動的で主体的な在り方です。
愛することは、僕の自由です。
相手がどう感じるか、どう反応するかは、相手の自由です。
その二つを切り分けて考えられるとき、愛はとても純粋なものになります。
失恋から見える「能動的な愛」
僕が20代の頃、長く片思いをしていた人がいました。
何度か食事に行ったり、メッセージを重ねたりしましたが、結局その人から恋愛的な好意を向けられることはありませんでした。
普通なら「脈がないなら諦めるべき」と言われる状況です。
確かに、気持ちを押し付けることは良くありませんし、相手を困らせる愛は健全ではありません。
けれど僕は、自分の気持ちがゼロにならないことに気づきました。
「彼女が僕を必要としていなくても、僕は彼女の幸せを願っている」という思いだけが、静かに残ったのです。
この体験を通して、愛することは「相手に受け入れてもらえるかどうか」によって左右されるものではないと学びました。
愛する姿勢そのものが、僕の心の在り方なのです。
家族との関係に見る「手放さない愛」
家族関係でも、同じようなことが言えます。
例えば反抗期の子どもを持つ親は、子どもから「放っておいて」と拒絶されることがあるでしょう。
そのとき、親が「もう必要とされないのなら愛さない」と思ったら、子どもは孤立してしまいます。
けれど「たとえ拒絶されても、あなたの幸せを願っているよ」と心で思い続けることはできます。
もちろん過干渉にならず、適切な距離をとりながらも、心の底では愛情を持ち続ける。
この姿勢があるだけで、子どもは安心感を得るのです。
これはまさに「それでも愛したい」という能動的な愛の姿勢の具体例です。
愛は「相手に委ねるもの」ではなく「自分で選ぶもの」
恋愛でも家族でも友情でも、愛を相手に委ねてしまうと不安定になります。
「相手が僕を必要としているかどうか」で愛の価値が決まってしまうからです。
けれど愛を「僕が選ぶもの」として捉えると、愛は揺らぎません。
相手の反応に関わらず、僕は僕の意思で愛することができます。
これは「愛されたい」という欠乏感から自由になることでもあります。
相手に愛されるかどうかに依存しなくても、自分が愛する姿勢を貫けるなら、そこには精神的な成熟があります。
「それでも愛する」ことと執着の違い
ここで誤解してほしくないのは、「それでも愛する」ことと「執着」は違うということです。
執着は「相手が自分の思い通りになってほしい」という気持ちから生まれます。
例えば「僕はあなたを愛しているのだから、あなたも僕を愛してくれなければ困る」と考えるのは執着です。
一方で「それでも愛する」は、相手の自由を尊重します。
「君がどんな気持ちであろうと、僕は君の幸せを願っている」という姿勢は、相手を縛るものではなく、ただ見守る愛です。
この違いを理解しないと、「それでも愛する」という言葉が相手を追い詰めてしまう危険性もあります。
「それでも愛したい」と思える心の成熟
僕が考える「あるべき愛の姿勢」とは、次のようにまとめられます。
-
愛は相手に必要とされるかどうかではなく、自分が選ぶもの。
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「それでも愛したい」という能動的な姿勢が、本当に強い愛。
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相手の自由を尊重し、執着ではなく祈りのような愛であること。
この姿勢は、精神的な成熟の証でもあります。
愛されることに依存するのではなく、自分の意思で愛を育てることができる。
それは人生を豊かにし、相手にとっても安心を与える在り方です。
まとめ
「もしかしたら君に僕は不用かもしれない。だが、それが君を愛さない理由にはならない。君がどんな気持ちであろうと、僕は君の幸せを願っているし、誰よりも幸せにしたいと思う。」
この言葉は、僕が愛について考えるときの出発点です。
相手に必要とされなくても、僕は僕の意思で愛したい。
これは決して自己犠牲でも執着でもなく、能動的で自由な愛の姿勢です。
愛は「与えられるもの」ではなく「選び取るもの」。
その姿勢を持てるとき、僕たちは本当に成熟した愛を生きることができるのだと思います。
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