
「自分の欲求を出すのが怖い」
「人にお願いすると、申し訳なさで胸が痛む」
「好きなことをしても、どこか後ろめたい」
こんな感覚を抱いていませんか?
僕自身もずっとそうでした。
やりたいことがあるのに、「それを言ってはいけない」「我慢しないといけない」と感じてしまう。
まるで“欲求を持つこと”自体が悪いことのように思えていたのです。
でも、欠乏学の視点から見てみると、欲求に罪悪感を抱く背景には「孤独」が深く関係しています。
今回は、「なぜ僕たちは欲求に罪悪感を感じてしまうのか?」というテーマを、心理的構造と具体例を交えながら丁寧に紐解いていきます。
- 欲求を出すのが怖いのは、「孤独」を思い出すから
- 孤独を恐れる人ほど、欲求を出せなくなる
- 欲求を否定されてきた過去は、「内なる他者」として残る
- 欲求を出さないことで得る「偽りのつながり」
- 欲求に罪悪感を抱く本当の理由
- 欲求を許すことは、「孤独と向き合う勇気」
- 欲求を赦すための3ステップ
- 欲求を抱けることは「生きている証」
- まとめ
欲求を出すのが怖いのは、「孤独」を思い出すから
欲求とは、簡単に言えば「私はこうしたい」「こうありたい」という生の声です。
でも、僕たちはその“生の声”を表に出すことに、強い恐れを感じます。
それは、過去の経験の中で「欲求を出す=人に拒まれる」「自分の望みを言うと、嫌われる・怒られる・離れられる」という記憶が刻まれているからです。
欲求を表現することは、他者との“違い”を明確にする行為。
「私はこう思う」「私はそうじゃない」と言うことで、相手と分離します。
つまり、欲求を出すということは、“孤独を引き受けること”でもあるのです。
孤独を恐れる人ほど、欲求を出せなくなる
アダルトチルドレンの多くは、幼少期に「親の顔色を見て生きる」経験をしています。
泣くこと、甘えること、怒ること、喜ぶこと。
本来、自由に表現できたはずの感情や欲求が、「家族の空気」を壊すことへの恐れから抑え込まれてきたのです。
例えば、
-
親が忙しくて、自分の話を聞いてもらえなかった
-
泣くと「うるさい」「我慢しなさい」と叱られた
-
欲しいものを言うと「そんなの贅沢」と責められた
こうした体験を繰り返すうちに、心の中ではこう学習します。
欲求を出す=誰かを困らせる
欲求を出す=愛されなくなる
欲求を出す=孤独になる
だからこそ、大人になってからも僕たちは、欲求を出すたびに「また孤立してしまうかも」という恐怖を無意識に感じてしまう。
そして、その恐怖を“罪悪感”という形で自分の内側に閉じ込めてしまうのです。
欲求を否定されてきた過去は、「内なる他者」として残る
幼少期に否定された言葉や態度は、僕たちの心の中に「内なる他者」として残ります。
たとえば、誰かにお願いしようとしたとき、
「迷惑をかけるな」
「我慢しなさい」
という声が、自分の中から聞こえてくることはありませんか?
それは、かつて自分を否定した“他者の声”が、心の中で生き続けているのです。
この構造を図式化するとこうなります。
欲求を感じた瞬間に、「また拒まれるのでは」という内なる声が響き、それが罪悪感を呼び起こす。
こうして、欲求=悪という感覚が固定化されていくのです。
欲求を出さないことで得る「偽りのつながり」
欲求を押し殺すと、一時的に“平和”が保たれます。
相手を怒らせずに済むし、関係が壊れない。
でも、そのつながりは「自分の不在」によって成り立つものです。
相手の望みに合わせ、自分を小さくして存在を薄めることで得られた“つながり”は、どこかで常に息苦しさを伴います。
それはまるで、「孤独を避けるために、自分を殺している」ような状態。
たしかに一人ではないけれど、心は孤独なままなのです。
欲求に罪悪感を抱く本当の理由
では、なぜ僕たちは欲求を抱いた瞬間に罪悪感を感じてしまうのでしょうか。
その正体は、こうです。
欲求を出す=「孤独になるかもしれない」という恐れを刺激するから。
つまり、罪悪感とは孤独への防衛反応なのです。
僕たちは、欲求を出すことで相手との距離ができることを恐れています。
「嫌われるかもしれない」
「面倒だと思われるかもしれない」
「離れていかれるかもしれない」
だからこそ、「欲求を感じること自体」を罪として扱い、自分を責める。
孤独を避けるために、罪悪感という“自己検閲”を使って自分を抑えているのです。
欲求を許すことは、「孤独と向き合う勇気」
欲求を表現するとは、「私はこう生きたい」という宣言です。
それはつまり、「他者と違っても、自分の生を選ぶ」という行為。
だからこそ、欲求を表すことには孤独を受け入れる覚悟が伴います。
でも、ここにこそ「自立」と「成熟」があります。
孤独を恐れて欲求を殺すことは、他人と同化して生きる生き方。
孤独を受け入れて欲求を表すことは、自分として生きる生き方。
僕たちが本当に求めているのは、前者の「孤独回避」ではなく、後者の「自己としての自由」なのです。
欲求を赦すための3ステップ
では、どうすれば欲求に罪悪感を感じなくなるのでしょうか?
ここでは、欠乏学的に整理した3つのプロセスを紹介します。
① 欲求を観察する(言語化)
まずは、自分がどんな欲求を持っているかを「観察」します。
ポイントは、「良い・悪い」の判断を一切入れないこと。
「今、僕は何を望んでいる?」
「それは、どんな気持ちから生まれている?」
たとえば
「もっと休みたい」
「優しくしてほしい」
「誰かに認めてほしい」
このように素直に言語化するだけでOKです。
欲求を“見ること”が、抑圧から解放する最初の一歩なのです。
② 否定された欲求を癒す(内面化)
次に、過去に否定された欲求を“今の自分”が受け止めます。
「あのときの僕は、ちゃんと愛を求めていたんだ」
「我慢じゃなくて、理解してほしかっただけなんだ」
過去の「内なる子ども」に語りかけるように、自分の欲求を抱きしめてください。
これが自己再養育(re-parenting)のプロセスです。
③ 欲求を小さく表現してみる(実践)
最後に、少しずつ外の世界で欲求を表してみましょう。
「今日は早く帰りたい」
「これ、手伝ってもらえる?」
「その話、もう少し聞いてほしい」
こうした小さな一言が、自分を取り戻す練習になります。
最初は罪悪感が湧いても大丈夫。
それは“孤独の恐れ”が反応しているだけで、あなたが悪いわけではありません。
欲求を抱けることは「生きている証」
最後に、僕が最も伝えたいことを一つ。
欲求とは、生命のエネルギーです。
「食べたい」「休みたい」「愛されたい」「挑戦したい」
そのすべては、「僕は生きたい」と叫ぶ心の声なんです。
欲求を持つことに罪悪感を抱くのは、本来“生きたい自分”を否定することと同じ。
だから、欲求を感じたときはこう言ってあげてください。
「ああ、僕はまだ生きたいんだ」
その瞬間、罪悪感は“自己否定”ではなく“自己理解”へと変わります。
まとめ
僕たちはみな、孤独を避けたくて欲求を抑えます。
でも、孤独を避けるほどに、自分から遠ざかっていく。
欲求を表現することは、「孤独を感じる勇気を持つこと」。
そしてその勇気が、本当のつながりを生むのです。
欲求を抱くことは悪ではありません。
それは、「生きようとする心の証」。
欲求に罪悪感を感じるあなたは、ただ“孤独を恐れるほど優しい人”なのです。
だからこそ、少しずつでいい。
自分の欲求を赦していきましょう。
それは、あなたが“自分を生き始める”第一歩です。
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