
僕たちは生きている中で、常に「何かが足りない」という感覚に出会います。
人から好かれたい、嫌われたくない、認められたい、不安から解放されたい。
こうした感情の根っこには、欠乏感があります。
「欠乏」という言葉は、どうしてもネガティブに聞こえますよね。
僕自身も以前は「欠乏をなくしたい」「欠乏を埋めたい」と思っていました。
けれど実際には、欠乏は簡単に埋まるものではありません。
むしろ、埋めようとすればするほど、埋まらない現実に苦しむことになってしまうのです。
そこで大切になるのが、欠乏した前提に立つという考え方です。
これは一見ネガティブに見えますが、実際には僕たちを解放してくれる強力な視点です。
この記事では、「欠乏した前提に立つ」ことの意味と、その実践がもたらす自由について掘り下げていきます。
欠乏を埋めようとする苦しみ
僕たちが欠乏を意識する場面はたくさんあります。
たとえば恋愛を考えてみましょう。
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「あの子に好かれているだろうか」
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「嫌われていないだろうか」
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「LINEの返信が来ないのは、私に興味がないからなのでは?」
こんな不安を抱いたことはありませんか?
このとき心の奥には、「好かれたい」「嫌われたくない」という願望が強く働いています。
けれど、その願望が強ければ強いほど、現実は苦しいものになります。
なぜなら、「好かれていないかもしれない」「嫌われているかもしれない」という欠乏を意識することになるからです。
つまり、「満たされていない前提」で考えてしまうのです。
ここで問題なのは、埋められないものを埋めようとしているという点です。
誰かが自分をどう思うかは、自分ではコントロールできません。
けれど僕たちは、どうにか相手の気持ちを操作しようとしたり、相手の反応を待って不安になったりしてしまう。
これこそが、欠乏に苦しめられる典型的なパターンなのです。
欠乏は埋められないから欠乏
冷静に考えてみると、当たり前のことに気づきます。
「欠乏を感じているのは、埋められないから」なのです。
もし簡単に埋められるなら、わざわざ欠乏感を抱くことはありません。
喉が渇いたら水を飲めばいい。
お腹が空いたらご飯を食べればいい。
そうした物理的な欠乏は、満たせばすぐに消えます。
でも心の中で感じる欠乏、「愛されたい」「認められたい」「孤独でいたくない」といったものはそう簡単には埋まりません。
だからこそ、僕たちはいつまでもその欠乏に囚われてしまうのです。
ここで大切なのは、「埋められないのに埋めようとする」ことは無意味だと理解すること。
むしろ、その無意味な努力こそが、僕たちをさらに苦しめているのです。
欠乏した前提に立つという受容
では、どうすれば苦しみから解放されるのでしょうか。
その答えが「欠乏した前提に立つ」という姿勢です。
例えば、さきほどの恋愛の例に戻りましょう。
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「あの子に好かれていない」
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「嫌われているかもしれない」
こうした可能性を、あえて前提に置いてみるのです。
一見すると、とてもネガティブで苦しい選択に思えます。
でも実は、この「受け入れる」という態度こそが、僕たちを自由にするのです。
なぜなら、「好かれているかどうか」に縛られなくなるから。
「嫌われたくない」と必死にしがみつくのではなく、「嫌われてもいい」という余白が生まれるのです。
その瞬間、相手の気持ちにコントロールされる人生から解放されるでしょう。
受容とは、望む状態を得ることではありません。
望まない状態を、そのまま認めることです。
そして、その認めるという行為そのものが、欠乏に振り回されずに生きる力になるのです。
欠乏を受け入れるとどうなるか
欠乏した前提に立つと、具体的にどんな変化が起きるのでしょうか。
いくつかの場面で考えてみます。
人間関係での変化
友人や恋人、家族に「好かれたい」「認められたい」と思うのは自然なことです。
でもそれが強すぎると、相手の言動ひとつで心が大きく揺れ動きます。
ここで「相手に好かれていないかもしれない」という前提に立つとどうなるでしょうか。
最初は寂しさや不安を感じます。
しかし同時に、「それでも自分は存在している」「それでも生きていける」という感覚が芽生えます。
相手の承認を前提にしないことで、逆に自分自身の軸が強まるのです。
仕事や挑戦での変化
仕事で「成果を出さなければ」「評価されなければ」と焦ると、欠乏感に支配されます。
しかし「評価されないかもしれない」という前提に立つとどうでしょうか。
プレッシャーが減り、「評価のため」ではなく「自分がやりたいからやる」という動機に立ち戻れます。
その結果、本来の力を発揮しやすくなるのです。
自己との関係での変化
僕たちはときに「完璧でなければ」「弱さを見せてはいけない」と思い込みます。
でも「僕は不完全だし、弱さを持っている」という前提に立てば、欠乏を隠す必要がなくなります。
むしろ、欠乏を含めて自分を認められるようになります。
これが本当の自己受容です。
欠乏は生きている証
そもそも欠乏は、悪いものではありません。
欠乏は「生命維持のための信号」であり、僕たちが生きている証でもあります。
喉が渇くのは、水が必要だから。
孤独を感じるのは、人とのつながりが必要だから。
承認を求めるのは、社会の中で居場所を持ちたいから。
つまり欠乏は、僕たちの存在を守るための大切なサインなのです。
それを否定しようとするのではなく、「欠乏がある」という事実を受け入れる。
そのとき、欠乏は苦しみの種から、むしろ成長のきっかけへと変わっていくのです。
欠乏を前提にした自由な生き方
僕が伝えたいのは、欠乏は埋められないからこそ、受け入れるべきだということです。
そして「欠乏した前提に立つ」ことが、むしろ自由への扉を開いてくれるのです。
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欠乏を埋めようとすればするほど、現実は苦しくなる
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欠乏を受け入れると、余白と自由が生まれる
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欠乏は生きている証であり、成長のきっかけになる
この視点に立つことで、僕たちは相手や環境に振り回されない生き方を選べるのです。
欠乏に抗わず、欠乏を抱えたまま生きる。
それは決して諦めではなく、むしろ成熟した自由のあり方なのです。
まとめ
この記事では、「欠乏した前提に立つ」という一見ネガティブに見える考え方が、実は僕たちを解放する大切な視点であることをお伝えしました。
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欠乏は埋められないからこそ苦しい
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埋めようとする努力そのものが無意味であり、苦しみを増幅させる
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あえて「欠乏がある」前提に立つことが受容である
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受容は自由をもたらし、欠乏を成長の糧に変えてくれる
欠乏は消すものではなく、共に生きるものです。
そして欠乏を前提にすることこそが、僕たちが心から自由になる道なのです。
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