
愛とは何か
僕たちは「愛」を知っているようで、実はよく分かっていなかったりします。
好きな相手に「愛している」と言いながら、実際には自分のために相手を利用していることも少なくありません。
学校で学ぶわけでもなく、誰かが明確に教えてくれるわけでもない。
それなのに人生のあらゆる場面に登場するのが「愛」です。
人間が社会というつながりの中で生きる以上、愛はその潤滑油であり、避けては通れないテーマなのです。
愛は欲求のベクトルである
愛とは感情ではありません。
それは「欲求のベクトル(方向性)」です。
人は常に欲求を抱えて生きています。
「〜したい」「〜されたい」という欲求が、他者に向かえば愛となり、自分に向かえば自己愛となります。
例えば「彼女をデートに誘いたい」という欲求。
それが「自分が口説きたいから」なのか、「彼女が行きたいと言っていた店に連れて行きたいから」なのかで、同じ行為でも愛と自己愛に分かれます。
愛とは「誰のための欲求か」で決まるのです。
愛は風見鶏のようなもの
愛を理解するうえで、風見鶏をイメージするとわかりやすいです。
風見鶏は風に吹かれると向きを変えます。
実は人の欲求も同じなんです。
本来は他者に向いているはずの愛のベクトルも、欠乏感という風が吹けば自己愛へと向きを変えてしまいます。
不足や恐れに支配されれば、自分を守ることに精一杯になり、与える余裕を失う。
そうして行動は利己的な自己愛に基づくものとなっていくのです。
欠乏感が自己愛を生む
なぜ自己愛的になるのでしょうか?
それは人間に「欠乏感」があるからです。
欠乏感とは、生存のために備わった「足りない」という感覚。
この感覚が強まると、人はどうしても自分の充足を優先せざるを得ません。
相手を喜ばせるより、まず自分を守ろうとするのです。
だからこそ、人を愛するには欠乏感との向き合い方が不可欠です。
「足りない」と思い込んでいるものを点検し、「それがなくても自分は大丈夫だ」と受け止められるようになるとき、初めて人は余裕をもって他者に愛を向けられるのです。
愛されなくても大丈夫
僕自身、かつては「愛されたい」という思いに縛られていました。
恋愛もすべて「自分が認められるため」にあり、相手のためではありませんでした。
しかしあるとき気づいたのです。
「愛されなくても大丈夫だ。自分の価値は自分で認められる」
そう思えたとき、初めて相手の価値を認め、純粋に愛を向けられるようになったんです。
もちろん今も自己愛の風に揺れることはあります。
それでも「愛の方向へ舵を切り直せる」自分がいる。
それが生きる力になるのです。
あなたはどちらに生きるか
愛とは、常にそこにある欲求のベクトルです。
風に吹かれて自己愛に向くこともある。
けれど、どちらに向けるかを選ぶのはいつだって自分自身です。
あなたは残された人生を、「愛されるために生きる」のか、「愛するために生きる」のか。
後悔しない生き方は、きっとひとつしかないはずです。
まとめ
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愛とは「欲求のベクトル」である
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欠乏感が強いと自己愛に傾き、余裕があると愛に傾く
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欠乏感を受け入れたとき、他者への愛を選べるようになる
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