
生きていると、いろいろな人に出会います。
すごい人も、どこか上手くいっていない人も、いろいろな人と出会います。
そんな中で、僕は弱い人に心が強く惹かれてしまう。
なんというか、強い引力のようなもので、その人を抱きしめてあげたくなるような、そんな感覚を覚えるのです。
この情動は一体何なのだろうとしばらく考えていた結果、ある一つの可能性に気が付いたので、今回の記事ではその弱さに惹かれる理由について考えてみたいと思います。
なぜ「弱さ」に惹かれるのか?
強くて堂々としていて、何でもうまくやってのける人よりも、どこか不器用で迷いながら生きている人に心が惹かれる。
「守ってあげたい」「助けてあげたい」といった言葉だけでは説明できない、もっと静かで深くて、個人的な共鳴のような感情。
最近ようやく気づいたのは、僕は他者の「弱さ」を通して、かつての自分自身と向き合っていたのかもしれないということです。
弱さに共鳴する理由
誰かの中にある脆さや迷いに触れるたびに、胸がざわつくのは、それが過去の自分の痛みと重なって見えるからだと思います。
人前では平気なふりをしていても、本当は何を信じればいいのか分からず、不安で仕方なかった自分。
誰かに頼りたいのに強がってしまい、いつも一人で踏ん張っていた自分。
そんな時期が確かにあったのです。
だからこそ今、目の前の誰かが見せる「不完全さ」に、安心したり、胸を打たれたりします。
それは、「あの頃の自分も、誰かにそう見えていたらよかったな」という願いの反映でもあります。
救いたいという気持ちの裏側
しかし、ふと立ち止まって自分に問いかけることがあります。
「僕は本当に相手のために動いているのだろうか?」
「それとも、誰かを救うことで自分を救おうとしているのだろうか?」
この問いは、誰にでも刺さるものではありません。
けれど僕にとっては、無視できない重みを持つものです。
誰かの苦しみを和らげたいという気持ちは本物です。
でもその優しさの奥には、過去の自分への償いのような想いが隠れていることもあります。
「あのとき、誰にも救われなかった自分を今なら救えるかもしれない」
「この人を救えたら、自分の存在に意味があると思えるかもしれない」
「自分はまだ無力ではないと証明できるかもしれない」
そうした補償としての愛。
過去の自分を放っておけず、他者を通して手を差し伸べる働きです。
しかし、それは決して偽りの愛ではありません。
むしろ、そこからしか始まらない愛もあるのだと思います。
傷ついた過去の自分を放っておけないほど、今の自分が成長した証なのです。
もし他者を救いたい気持ちが、過去の自分を肯定したい叫びと重なっているなら、その愛は誰よりも本気で、誰よりも切実なものです。
救う愛から、赦す愛へ
そうして始まった「誰かを救いたい」という愛は、やがて形を変えていきます。
誰かを救うことで自分を肯定しようとするうちに「本当に肯定したいのは自分自身なのだ」と気づいていくのです。
そしてふと、「この人を愛したいという気持ちは、自分自身への愛の練習なのかもしれない」と感じる瞬間が訪れます。
そう気づいたとき、僕たちは他者に与えていた愛を、ようやく自分にも向けられるようになります。
救わなければ愛せないのではなく、何もしなくてもそばにいるだけで、存在そのものを愛せるようになるのです。
そのように、自分の「弱さ」や「過去」や「未熟さ」も、責めずに抱きしめられるようになります。
まとめ
誰かに向けて差し出した手は、実は自分自身に向けて差し伸べていた手だったのかもしれません。
あの頃、誰にも差し出してもらえなかった手。
今、自分の手で誰かを救おうとするとき、その手は過去の自分にも届いています。
「弱い人に惹かれる」という気持ちの奥には、自分の弱さを抱きしめ直したいという深い願いがあります。
その願いは決して自己中心的なものではありません。
むしろ、自分を赦し、世界にもう一度心を開こうとする優しさのかたちです。
どうか、自分の弱さを責めないでください。
その弱さこそが、誰かに届くあなたの優しさの源であることを、信じてほしいです。