僕たちは、ときに人生の大きな岐路に立たされます。
大学に進学すべきか。
転職すべきか。
結婚する気のない恋人と別れるべきか。
そんな選択の前で、僕たちはふと「どれが正解なんだろう?」と考えます。
間違えたくない。
損したくない。
後悔したくない。
だから、「世間的にうまくいきそうな道」や、「常識的に正しそうな選択」にすがりたくなる。
でも、そうして選んだ道の先で、心が静かに問いかけてくるんです。
「これは本当に、自分の人生なのか?」
「“正しさ”にしがみついて、自分を見失っていないか?」
今日はこの「正解を求める姿勢」と、その背後にある「欠乏の恐れ」について、少し深く掘り下げてみたいと思います。
「正解がある」と思いたくなるのは、なぜか?
結論から言えば、人生に「絶対的な正解」はありません。
都会で刺激的な生活を送るのも、自然の中で静かに暮らすのも、どちらも素晴らしい。
結婚しても、しなくても、子どもを持っても、持たなくても、それぞれに意味がある。
にもかかわらず、なぜ僕たちは「正解がある」と信じてしまうのか?
それは、「間違えたくないから」。
でも、もっと正確に言えば、「間違えたことで自分が欠けていると感じたくないから」です。
僕たちが本当に恐れているのは、「失敗」ではありません。
失敗して、“足りない自分”になることなのです。
欠乏への恐れが、正解を求めさせる
たとえば、こんな思考に心当たりはありませんか?
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安定した企業に就職しなければ、「将来食べていけないかもしれない」
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恋人と別れたら、「一生孤独になるかもしれない」
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大学に行かなければ、「周囲からバカにされるかもしれない」
これらに共通するのは、「○○がない自分では価値がないのでは?」という疑念です。
つまり、僕たちは「欠けた自分」が耐えられないのです。
「愛されないかもしれない」
「評価されないかもしれない」
「豊かになれないかもしれない」
その“かもしれない”に怯えるあまり、「正解っぽい答え」を追いかけてしまう。
それが、正解信仰の根っこにある欠乏への恐れです。
正解を選んでも、自分の人生にはならない
でも、本当はどんな選択にも、リスクや後悔はつきものです。
むしろ「正解」に見える道の方が、他人の期待や常識に縛られていて、自分の人生からどんどん遠ざかっていくことだってある。
僕たちは、「正しい答え」を選ぶことよりも、「欠乏を受け入れたうえで、自分が納得する選択をすること」のほうが、よっぽど大切なのではないでしょうか。
自分らしく生きるとは、「欠けたままの自分」を引き受けること
「自分らしさ」って、完璧な状態からは生まれません。
むしろ、「足りないところがあるまま、それでも自分にOKを出す」という決断から始まります。
たとえば、収入が少ない不安があっても、それでもやりたい仕事を選ぶとか。
世間的な評価を捨てても、自分にとって誠実な生き方を選ぶとか。
そういう選択をしたとき、欠けた部分が苦しみになるどころか、誇りや学びに変わっていくのです。
「全部は手に入らない。けれど、これが“自分の選んだ人生”だ」と思えたとき、人は自由になります。
まとめ
人生の選択に、正解はありません。
あるのは「どれだけ自分が納得できるか」という一点だけです。
正解を探してしまうのは、不足すること、間違えること、傷つくことを恐れているから。
でも、たとえ欠けていても、人はちゃんと生きていけます。
幸せにもなれるし、大切なものも育てていける。
だからこそ、勇気を出して「正しさ」よりも「納得」を選びませんか?
たとえうまくいかなくても、「これが自分の選んだ道だ」と思える人生は、正解をなぞっただけの人生より、ずっとあたたかく、力強いものになるはずです。