僕たちはしばしば「正しくあらねばならない」「誠実でなければならない」「高潔でなければならない」と、自分に厳しい理想像を課してしまいます。
そうあるべきだと言う世間のルール、一般論、暗黙の了解。
色々なしがらみが、ぼくたちにそういったあるべき姿を押し付けてきているのです。
ただ、この生き方はとても苦しい。
本来の自分を押し殺して、あるべき自分として生きるのは、常にストレスを感じ、自分を否定し責め立てることと同義であり、幸福とは言い難い生き方になってしまうのです。
やめられるならやめたい。
けどやめられない。
もしもあなたがこんな両価的な欲求に振り回されているのだとしたら、少し考えてみてほしいのです。
本当に人間はそんな理想に適った存在として生まれてきているのかと。
在るべき姿と実際の姿は別物。
今回の記事では、人間の本来の姿を起点に、倫理や道徳に縛られない自己受容について考えてみたいと思います。
正しくない自分を責めなくていい
正しくない自分を責めるという行為は、誰しもが通る道。
「どうして自分はこんなこともできないのか」「どうせ自分なんてダメな存在だ」などと、正しいとされる存在ではない自分をつい責めてしまうものです。
その行為の善悪はさておき、あなたはきっと、正しくあろうと努力できる人間であり、これまで正しくあろうとし続けていたんですね。
このままの自分ではいけないと、より良い自分を追い求めることは、きっと苦しかったと思います。
それでも投げ出さずに今も正しくあろうとしている自分を、今は認めてあげましょう。
言い換えれば、未熟な自分と向き合い続けてきたとも言えます。
その苦行を乗り越えてきた自分に「お疲れ様。頑張ってきたね」と労いの言葉を贈ったとしても、バチは当たらないではないでしょうか。
本能と倫理はしばしば対立する
ただ、求め過ぎて苦しくなるくらいなら、正しくあろうとする気持ちを手放すというのも、一つの生き方なのではないかなと思うのです。
だから、タイトルにもあるように、人間は正しくあるようには作られていないという事実を飲み込むことも大切なのです。
人間の根源的な欲求、例えば、支配欲、嫉妬、性的衝動、他者を排除したいという気持ちなどは、多くの場合、私たちが“正しい”と信じる倫理観や道徳と衝突します。
例えばですが、食べ過ぎてはいけない。
そんな風に自身の食欲を律している人は多いと思います。
ですが、たくさん食べたいという欲求は湧き上がってくるものですから、止めることはできません。
それは、食べものを大量に食べることを「快」と感じるように出来ているからです。
けれど、それは「自分がおかしい」からかと言えばそうではない。
むしろ、それが“普通”なんですね。
全てにおいて、生まれてくる欲求が正しくない以上、人は最初から“正しくあるよう”には作られていないのです。
人類が作り出した架空の枠組み
倫理や道徳は普遍の真理ではありません。
社会を秩序立てるために人間が後から作り出した枠組みです。
人類が生まれた瞬間に倫理や道徳というものが存在していれば、それは人間の先天的要素と言えるでしょうが、実際はそうではないですよね。
言葉ですら、後天的に生まれたものです。
もちろん、倫理や道徳といった規範がなければ社会は成り立ちませんが、僕たちの内面にまで「そうあるべきだ」と強く刷り込まれることは望ましくありません。
それは自分の本能的な部分を否定し、苦しむことになります。
本来の人間は、歪みや薄汚れを抱えた存在。
そこには善と悪、理性と欲望、美と醜が混在しているのです。
だから、自分が正しくなかろうと、正しかろうと、それを含めて人間らしさであり、むしろその至らない部分こそが、僕たちを人間たらしめていると言えるのではないでしょうか。
正しくないからこそ、正しさに価値がある
大切なのは、そうした人間の本質を否定せずに受け入れることです。
人は未熟で至らない存在。
だけどそのうえで、「完全に正しくはなれないけれど、それでも正しくあろうとする姿勢」にこそ、精神的成熟が宿るのです。
正しいかどうかの結果ではなく、その過程を大切にすることが、僕たちを成長させるのです。
他者や社会の目を気にして「正しくあろう」とするのではなく、不完全な自分を受け入れたうえで、「それでも、できる限り善く生きよう」と努めること。
それこそが、人間の誠実さであり、ストレスのない、幸せな生き方なのではないでしょうか。
まとめ
あなたがときに不純な感情を抱いたり、醜い衝動に揺れたりするのは、あなたが“間違っている”からではありません。
それは、人間である以上、ごく自然なことです。
人間の本質を否定しないこと。そこから始めてこそ、本当の意味での「善さ」や「成熟」が育っていくのだと思います。