愛されたいよね。
めっちゃ分かる。
僕たちは心の奥底に愛情飢餓感を抱えていることが多いから、無意識的にも誰かに愛してもらいたいと願ってしまっています。
そしてそれは「認められたい」という欲求や、「恋人が欲しい」といった欲求として表出してくるわけです。
でも、自分が求めているように世界は自分を愛してくれることはなく。
この「愛されたい」という欲求が満たされぬまま、今日という日まで過ごしてきてしまっているのです。
で、インターネットが発達している時代ですから、みなさん調べるわけですよ。
「愛されるには」「愛される 方法」なんて検索しちゃって。
僕も調べたことがあるんですけど、こう出てくるんですよ。
「愛されたければ与えなさい」
与えると愛というのは返ってくるらしく、まずは与えることが大切らしいです。
確かに。
理にはかなっている。
でも実は、この細かいニュアンスを汲み取れずに間違った愛の与え方をしてしまうと、逆に苦しくなっていってしまうのです。
今回の記事はそんな「愛されたい難民のみなさん」が、本当はどうしていったらいいのかをまとめていきます。
なんだか独り歩きしてしまっている「愛されたければ与えろ」という言葉の本当の意味を一緒に抑えていきましょう。
愛されるために与えてはいけない
もういきなり何を言い出すんだという感じなのですが、愛されるために与えてはいけません。
真っ向から全否定かよ!っていうのは一旦飲み込んでいただいて。
さっきは理にかなっているとか言ってたのに、なんで愛されるために与えちゃいけないとか言い出しているんだって話になりますが、どうして与えてはいけないのかというと、愛されるために与えると、あなたは苦しくなっていくからです。
うん、余計に分からないですね笑
勿論説明します。
なぜ愛されるために与えるという行為が苦しくなるのかというと、愛されようという動機が問題を引き起こすからです。
そもそも与える行為というのは愛するという行為です。
相手の為を思うからこそ生まれる行為。
だから与えることによって愛は返ってくるので人は愛されると。
これが根本的な仕組みになっています。
愛するために与えるから、自分は与えるという行為自体に満足し、相手のリアクションに依存しない喜びを手に入れることができます。
しかし、愛されるために与えるという行為は、相手のためを思っていません。
自分のために行っていますよね。
あくまで与えるという「愛のあるフリ」はしますが、目的が与えるという行為ではなく自分が愛されるという結果にフォーカスしているので、与えた結果が思っていたものと違うと不満で仕方なくなるのです。
相手に与えろと言うから、自分を犠牲にしてまで尽くしてみた。
でも、相手は思うように喜ばない。愛されない。
そうしたときに不満が生まれるのは、与えた結果期待していたものが得られないからです。
本当はやりたくないのに、愛されるために与えているから不満になるのです。
でもそうではないんです。
他者に尽くすことも、本当に自分がやりたくて、相手のことを思ってやっていたら、尽くしたこと自体で満足なのです。
極論相手が喜ぼうが喜ばなかろうが、その「尽くす」という行為が幸せなのです。
そう。
与えるという同じ行為でも、そもそも動機が違うのです。
「愛されたければ与えろ」ではなく「愛されたければ、愛するために与えろ」というのが本来の言い回しであり、僕たちが目指すべき愛の形なのです。
まずは動機を整えること。
そこがなによりの出発地点なのです。
愛されることを求めない
そもそも、愛されることを求めるというのは、空から100億円が入ったアタッシュケースが落ちてこないかなと言っているようなものです。
つまり、自分でコントロールできないところに期待しているということです。
愛するかどうかは相手が決めることです。
更には、そもそも相手に愛する能力があるかどうかにも依存してきます。
どれだけ相手に愛してくれることを求めても、相手に愛する能力がなければ愛されるわけがないのです。
人は、自分がコントロールできる範囲内で欲求を持つからストレスなく生きることが出来るんです。
自分のコントロールできない対象が自分の欲求を満たしてくれることに期待をしている限り、ストレスからは逃れられないのです。
今からどうしても晴れてほしいと願いますか?
きっと願わないことでしょう。
それは天気は自分の願いを聞き入れてくれることはないということを、肌感覚で理解しているからです。
だから「ああ、雨なら仕方ない」と嫌な現実を受け入れることができるんです。
それは他人も一緒です。
どれだけ言語で通じ合えようが、相手の心までコントロールすることはできません。
相手を脅したり、おだてたり、あの手この手で支配しようとしても、コントロールすることはできないのです。
だから「愛してくれなんだな」と諦める。
そんなことに振り回されてる時間を、自分が愛することに向けていく。
そういった姿勢が大切なのです。
愛されるより、愛せ
愛されるよりも愛しましょう。
それは愛されることに執着していても意味がないからです。
まずは自分が他人を愛するために努力をすること。
相手に愛を与え続けること。
そうしていた結果、気づいたら愛されているものなのです。
愛されたいという欲求は捨てることです。
完全に捨てることはできなくても、その欲求から生まれる行動は起こさずに、愛するための行動のみにフォーカスしていくのです。
私を愛してくれなんて、なんと烏滸がましいのか。
洋服を買いに行って店員さんに「これ買ってくれ!まじで買ってほしい!そしたら私は嬉しい!」とか言われても買う気にならないじゃないですか笑
それで似合ってもないのに「お似合いですから買ってください」とか言われたら、その店から出たくなるでしょう。
あなたが抱えている愛情飢餓感というものも、本質的には同じことなのです。
そうではなくて、本当に似合うものを勧めてくれて、無理に押しつけがましくしないでいてくれるお店こそが、いいお店なのではないですか?
そういうお店が、愛のあるお店なのではないですか?
もちろん愛情飢餓感を抱えていることを責めるつもりはないです。
僕自身抱えていましたし、それは大抵、生育環境の悪さから来ているものですから、あなたは運悪くそういったものを抱えているに過ぎません。
だからある意味仕方のないこと。
でも、だからといってそれを解決しようとしないのはあなたの責任です。
背負いこんでしまったこの宿命とどう生きるかは、あなたの選択なのです。
愛を要求し続けて生きるのか、愛を与える側に回るのか。
あなたが選択するのです。
まとめ
愛されたければ与えろというのは、愛されるためにすることではありません。
愛するために与えることが大切なのです。
愛されるためにやっていることは、どこか要求がましくなる。
どこか与えられたことに応えなければいけないプレッシャーが相手に伝わってしまう。
そうではないんです。
相手に与えることにあなたが満足することが大切なのです。
自分が大切にしている花に水をあげることが毎日の喜びであるように。
自分の大切なペットと一緒に遊ぶ時間が毎日の喜びであるように。
相手から返ってくる「結果」ではなく、自分が行う「過程」に満足するように生きましょう。
欲しがらずに生きていれば、気づいたら愛されていますから。